夕陽池

 ケロケロケロケロケロケロケロ。
 紫陽花についた緑色の葉っぱの上で、夕陽池いっぱいに響きわたる雨の音に負けまいと、1匹の蛙が力を込めて鳴いています。
「ヨウさんはまだ来ないのかねぇ。約束の時間から、もう2分も過ぎてるよ。踏まれていなけりゃいいが」
 すると、白色の傘をさした、砂糖が大好きなレミさんが煙草をふかしながら言いました。
「ルイさんのお見舞いに行こうと言い出したのがヨウさんなのだから、忘れていることはないわよね。きっと手土産を何にしようか悩んでいるのよ」
 蛙は頭を上下に3回ふり、「確かに考えられる」と言いました。
 夕陽池は、自然が豊かな群馬県の赤城山の麓に存在します。晴れた日の夕方は、池に夕陽が溶けていくようにみえることから、夕陽池という名前が付きました。赤城山が噴火してからできた池なのですが、立派な深さを誇るため、人間は立ち入り禁止です。ですから夕陽池は、人間ではない生き物たちの間では「気分転換ランド」として大変人気のある土地です。
 蛙が腕を組んで、「ヨウさんが約束を忘れる可能性も、なくはないのかもしれない」と言い終えると同時に、目線をいつもよりも下げながら口元を動かして走る、ヨウさんが現れました。
「たいへんだ。芋虫病院の連絡によると、昨日ルイさんが行方不明になったらしい。警察に届けを出したが、まだ見つかっていないそうだ」
 ふたりは、ヨウさんの言葉を聞いてから3秒間かたまりましたが、水黽(あめんぼ)がレミさんの煙草をひょいと掴み取っていくと、目をしばたたかせて再び動きました。
「ルイさぁん、いたら返事をしてぇ。ルイさぁん」
 どんなに呼んでも、返ってくるのは雨の音だけです。
 何度も繰り返しました。
「ルイさぁん、いたら返事をしてぇ。ルイさぁん」
 蛙が心のどこかで、「意味がないのではないか」と諦めかけた、その時です。雨の音がどんどん小さくなり、灰色の雲は橙色の光によって夕陽池から追いやられました。
「ああ、軽い、軽い」
 ルイさんの声です。
 蛙は地面を探しました。けれど、ルイさんはいません。
「ここさ」
 見上げると、そこには、夕陽を浴びてヒラヒラと黄色い羽をはばたかせる蝶がいました。

(了)


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