ぽとりと

スマホで動画をみていたら、水のように冷たい何かが左手にぽとりと落ちた。
液体ではない。濡れていないから。
固体でもない。痛くないから。
もちろん気体ってわけでもない。
私は上を見た。そこには白い天井と、銀の小さなフックがあった。
フックはひとつしかなく、これに引っかけてバランスをとることができるものは限られてくる。
だけど何も引っかかっていない今、問題なのはその奥だ。
天井の奥は屋根裏部屋。
よし、決めた。
屋根裏部屋に行こう。
この部屋にもう二度と帰ってくることはないかもしれないけれど、私は行く。
ハシゴをかけようと思っても、かける場所がない。
この部屋には椅子も机もないんだ。
どうしよう。
ここで諦めようか。
いやいや、ここで諦めたくはない。
屋根裏部屋に行くって決めたんだから。
私はジャンプした。
もう一度、手を伸ばして思いっきり、ジャンプした。
そうしたらパカッと天井が開いて、「こんにちはー」ってカッパが顔を見せた。
カッパ。
ホントにカッパ。
からだは緑で黄色い口に、お皿を頭に乗せている。
「ごめんごめん、お邪魔してるよー」
呑気な口調で笑ってる。
「さっきね、お皿の掃除してたのよ。そしたらさ、なんかするするっと手が滑っちゃって、一瞬だけね、お皿を体から離しちゃったのよね。今はね、もうほらこの通り」
カッパは運動神経が良いのだろう、屋根裏部屋から床まで飛び降り、見事な着地を決めた。
「体から離すとね、あ、君、誰にも言わないよね?」
私は頷いた。
「だよね、うん、でね、溢しちゃったんだよね」
カッパは胡座を組み、腰から出したきゅうりをかじった。全身濡れているように見えるものの、時間が経てば乾くような気配や、床にカッパを囲むようにして水溜まりができるような気配が一切ない。やはり、カッパだ。
「溢すと、減点を食らうの。初めてだったからさ、驚いちゃったんだけど、まぁ無事だからね。で、気づいたのよ。大変だ、ここから下に漏れちゃってるじゃんって」
カッパはニッと笑った。歯はすべて、きゅうりのようだった。
「本題なんだけど」
カッパは私と鼻が当たる距離に詰めて来た。
「ここに、住まわせてくれないかな。君みたいな人間になりたいんだ」
私は固まった。
「やっぱりダメか?怖いのか?」
「いや、その」
私は言葉を選んだ。
「あなたは今、私のことを人間だとおっしゃいましたよね」
「うん、だって君は、どこからどうみても人間だからね」
「嬉しい」
「え?」
「私もね、最初はあなたと同じ、カッパだったんです。もう一年になります。この家の主であられる河田さんにお願いしたんですよ。私はちゃんと玄関から入りましたけどね。もちろん、最初は反対されましたよ。けれど、私の意思は変わりませんでした。だから私は胸を張って、人間になりたいとお伝えし続けました。それで、スマホという人間が築いた文明の利器を使用することのみが許されたこの部屋で、生活するようになったんです。あ、でもこのスマホ、河田さんがおっしゃるには、少し人間が使っているものと違うみたいで。完全に人間になったら完璧なスマホをもらえるらしいんで、楽しみなんですよね。ひとつ驚くのは、鏡となりうるものがここには全くないことです。水もそうですけど、このスマホ、暗い画面になったときに姿が映るかもしれないと思ったんですけど、無理なんですよね。カメラ機能とかそういうものも一切ありませんし。いやぁ嬉しいですね。私、人間になれてるんですか。あ、すみません、長々と」
「いや、大丈夫だよ。そっか。そうなのか」
カッパの目はどんどん大きくなった。
「食事とかはどうしてるの?」
「始めのうちは私もあなたのように、腰からきゅうりが出てきてたんで、それで。きゅうりが段々と萎れて、最近は全く出てこなくなってきて、ちょっと怖かったんですけど、そっか、人間になり始めていたから、きゅうりが出てこなくなっていたんですね。何しろ鏡がないので、ここには。あ、話を戻しますと、食事は、きゅうりが出てこなくなってからは、扉のところに置いていただくようになりました。河田さんとはスマホで連絡を取れるので。お風呂は交代制で、トイレは自由です。でも本当に鏡がないので、いやぁ人間になれていることに気づかなかったです」
「でも、見えるでしょ。こうやって、腕や胴体は。足だってさ」
カッパはまだ何もわかってない。
「その精神じゃ、ダメなんです」
カッパは質問を続けた。
「誰か他にもいるの?」
「いるっぽいんですけど、わからないんですよね。秘密なんです」
「ふーん」
話を逸らした方が良さそうだ。
「でもすごいですよね。屋根裏に入れちゃうなんて」
「ちょちょいのちょいよ」
私とカッパは笑った。
「それじゃあ、今度は玄関から失礼するわ」
「はい、お気をつけて」
カッパは身軽に屋根裏部屋へ吸い込まれるように飛び、姿を消した。
(了)

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