見出し画像

人は何を残すのか

今日(2月19日)は父の命日だった。
例年のように遺影を横に霊会通信をしながら二人で飲んでいる。
これも例年通り「今年もお前はパッとしなかったな」と説教されている。

父が他界して15年くらいになる。
年を追うごとに降りかかる人生の問題も増えてきて、もっと父親として、男としての身の処し方について教えを乞うておくべきだったという後悔も年々強くなってきている。
たぶんそんな事を考えているからあの世からも父に説教されるのだろう。

来週は子供の誕生日だ。
奇しくも、というべきか、父の葬儀の日は子供の誕生日の日だった。
孫の成長を何より楽しみにしていた人だったので、当時はここにも人生の皮肉を感じずにはいられなかった。
それはさておき。
今年のプレゼントにはこれを贈った。


昨年の誕生日にはスケジュール帳を贈った。
このクラウドの時代にデジタルネイティブ世代にどうかとは思ったのだが、僕自身が未だにメインのスケジュール管理にはスケジュール帳を使っている人間という事もありそれにしてみた。
(と言って僕は子供の年齢の時には毎日家と学校の往復だけで、管理するほどのスケジュールも無く、当時もらっていても使う事はなかっただろう)

子供も今までは自分の人生を自分のものとして現実的に考えたことはあまりなかっただろう。だが、もうそろそろ「進路」という形で有形無形にその言葉が目の前に現れてくる。僕のようにただ何となく流されていくのもそれはそれで一つの形だが、子供にはもっと主体的に「何者」になるのかを選んでほしい。
そう、「自分で、自分なりの目標を立て、自分の人生を歩き始めてほしい」という願いをこめたつもりだった。
(願いをこめて渡すだけにすれば良かったのだが、せっかく考えたので言ってみたくなり、渡す時に全部言ってしまった)

閑話休題。

今年一年は子供にとってもかなりしんどい時期があり、今までの短い人生の中でも、後から振り返ってみたら転機だったと言える年だったかもしれない。
そこで苦悩してきた子供を見てきて、(そんな事は親として若者に言うには少し早いのかもしれないが)「頑張るのは大事だけど、疲れたら上手に休むのも大事なことなんだ」と伝えたいと思った。
数か月前から子供はウォーキングを始めた。スペンサーの「初秋」ではないが、まるで運動をした経験がない子が毎日こつこつ歩いて、今では10km歩けるようになったと得意げに話していた。
もっと歩いてみればいい。疲れたらその椅子で休んで、元気が出たらまた歩き出せばいい。
そんな思いを込めた。
(込めるだけにできずに、結局全部話したんだけど)

僕が子供に残せるのは、願いや思いだけと思っている。
そこから何かを得てくれたら(たとえ形にはならずとも)親としてこれほどの達成感はないだろう。


去年の母の日に母に連絡したら、この写真が送られてきた。

お父さんから母の日にもらったハイビスカス。木が折れたり、弱ってますが、今年も咲きました。1日おきくらいに、1個ずつ咲きます(^O^)

父さん、あんたって人は。
僕は願いしか残せないと思っているのに、あんたは15年経っても形のあるものを残して逝くなんて。
なんて凄い人なんだ。

もっと色々話したかったよ。本当に。

フォロー・サポートして頂けると励みになります。