あい

昔からごめんなさいって言うのが苦手だ。
ごめんなさいって結局自分の罪を許してくれご免こうむってくれって相手に懇願する行為にすぎなくね?って思ってしまうんだよなあ。

そもそも罪ってなんなの?
その基準って誰が作ってんの?
何故人は謝罪という儀式を律儀にこなすんだろう。一度起こったことは帳消しにはできないのに。

大体の場合、こういったことを人に訴えると相手は腹を立てるか全く取り合ってくれないかのいずれかである。こちらはごくごくまじめに話しているにも関わらずだ。
まれに真剣に僕のこうした意見に耳を傾けてくれる人もいるけど、結局は憐れみと嘲笑の混じったまなざしをむけられるのみである。さみしい人だねとでも言うかのような。

僕の話し方が悪いんだろうか。
まあその可能性は低くはないけど。でも謝罪という行為に疑問を抱いているってだけでなんでこんなに非難の的になってしまうんだろう。わけがわからないよな、きゅーべー

ごめんなさいと同じくらいつかめないなって思うのは正義って言葉かもしれない。

「正義感の強い人」っていうのは度々耳にしたり目にしたりする機会がある。それは要するに世に蔓延るルールを常に意識して、かつそれを遵守してる人のことだと僕は解している。でもそのルールっていうのはあくまで普遍的なものであって個々人の利害をも考慮できているものではなくないくない?(まあそりゃ不可能なんだろうけどそれは置いといてさ)

多くの人にとっての利益を優先させるために少数は犠牲になる可能性を帯びているってことになりますやんな?

もちろんそれは間違いじゃない。公正ってこういうことだと思う。だから社会は機能している。でも僕が怖いなって思うのは、あたかもそれだけが正しいこととしてまかり通っているってことなんだ。

「正義」という暴力のもと声をかき消されてしまった人や物、結構見てきたと思う。別に彼らのことを救いたいとか大層なことは考えてない。それこそ憐れに思うわけでもない。

ただ、腑には落ちない。
なんで「予め用意された決まりごと」に従うのがさも当然の如くなってるんだろ。その決まりごとっていうのは具体的に誰にとっての何を守るためのものになり得るだろうか。

こんなことばっかり言ってたら僕自身が次のルールブックの座?を虎視眈々と狙っているかのように思われてしまうかもしれない。でも勘違いしないでほしい。決してそんな重荷は背負いたくないし、そもそもそういう体制の構造こそが危険なのではないかと先刻から申し上げているのだ。(てかぶっちゃけどうでもいい。みんなでなるべくごきげんに暮らそうぜ)

強いて言えば抑圧されがちなものたちの声も世に響かせたい。

何事にもいい塩梅ってのがあるよな。僕に今狙っている座があるとすればそれは森羅万象の音を司るPAさんとかそんなかもしれない。大きすぎるとこは絞る。小さすぎるとこは上げる。ミュージシャンたちがいい音楽を創り出す手助けをほんのちょっとする。まあそれも僕の主観で決まっちゃうわけだからさっきから自分が主張してることと矛盾しちゃうわけだけど。感覚としてはそんな感じかなって思う。あまり感心できる喩えではないな、、うに

とかく世を渡り歩くのはむつかしい。(夏目漱石がそんなこと言ってたっけね。忘れた。ymksてことやお分かりか?)ルールが一定の基準を示すって性質の物である以上、そこからあぶれてしまうものは
当然出てくる。そしてそういうはぐれもの達を多数派は良くも悪くもはれもののように扱うのが常であるように見受けられる。

僕自身はあっぷあっぷしながらも一応このルールっていうものさしに必死でしがみついてきた方だと思う。でも気づいた。このものさしでは測れないものが沢山あるってことに。そして僕が出会ってきたその測れないもの達っていうのは、言葉にするにはもったいないほどみな美しくて魅力的に感じられたんです。

ものさしにぶら下がっていれば、なるほど確かに、個人差はあれども比較的に社会に馴染んで平和に暮らしていけるだろう。でもいまいちその意味を見出せないままレールに沿って歩いていくより、気の向くままにほっつき歩いて道草食ってた方が楽しいな♪って思うようになったんだあ僕は。

一緒に羊雲でも捕まえに行きましょうよ。
もしよければさ


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