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【ダンスレビュー】向田邦子が踊ったら…?

向田邦子とその世界観を、身体でどう表現するか  ー『邦子狂詩曲 (クニコラプソディー)』ー


 2024年08月09日 (金) 東京芸術劇場シアターウエストにて『邦子狂詩曲 (クニコラプソディー)』が上演された。

 振付・構成・演出はコンテンポラリーダンサーの中村 蓉。公演タイトルの「邦子」とは、女性作家の向田邦子のことで、向田の同名小説『花の名前』と、向田の価値観を表すことわざをタイトルにした『禍福はあざなえる縄のごとし』の、ダブル・ビルである。

公演パンフレット。ポスターはじめ、クリエイティブがとてもかっこいい。

『花の名前』

 1つめの『花の名前』は、今回が3回目の上演になる。2022年に初演、2023年に再演し、好評を博してきた。コロナ禍で無くなった幻の初演に出演するはずだったというストーリーテラー兼夫役の俳優・福原冠は、3回目にして初めての出演となった。

過去公演の展示。衣装が変わっていた。

 福原が舞台上に現れる所から始まる。本を片手に、小説と同様、電話機の下に敷いてある小布団の描写を、舞台を歩き回りながら朗読している。のびのびと、一つ一つの音を突き刺すような明瞭な朗読が、観客を一気に『花の名前』の世界へと引き込む。
 常子役の中村は、現れると床に横向きに寝転がる。腕を背中に回し、黒電話のダイヤルのジリジリとした様子を表すかのように、手がカクカクと動く。こわばった足先も印象的で、常子の苦しさを表すようだ。

 2人のお見合いのシーンでは「結婚したら、花を習ってください。ぼくに教えてください」というプロポーズから、2人のデュエットが始まる。物事に興味のなかった夫が、常子のおかげで、色々な物の違いや、味わいを知っていく。「ほうれん草と小松菜の違い」「「朱色と赤の違い」…。この知っていく喜びを、中村はクリエイションノートで「ヘレン・ケラーのウォーターの感動みたいな」と書いていた。(目と耳が不自由になったヘレン・ケラーが、家庭教師によってwater(水)の存在・意味を理解し、向学心と求知欲が増していく、という有名なエピソードがある。)知るたびに世界が鮮やかになっていく夫と、教えることで夫に対して優越感を感じる常子。2人の喜びが加算なりあって、舞台上の盛り上がりは最高潮に達する。まるでミュージカルのような、高らかな掛け合いと踊りが印象的だった。

 しかし「これは?」と常子に聞いていく夫の声から、徐々に感情が無くなっていく。夫をかわして得意げにしてた常子の体を暴力的に捉え、押さえ込むようにのしかかっていく。小説では「教わった分だけ、お返しというか仕返しをする習慣」と書かれているが、まさに仕返しのように、暴力性や支配欲求を感じるような動きだった。

 福原の、客観的に少しウィットにストーリーを伝える役、恋に落ちるロマンティックな夫、支配欲求と暴力性を持つ夫、それらを声・歌・踊りで一瞬のうちに切り替える福原の表現力に、観客は心を引き込まれていた。

 実は、デュエットの途中で地震による中断が入っている。しかし、中村と福原の気取らない挨拶と、暗転の活用で、舞台はスムーズに再開。問題なく世界観に戻ることができた。

 その後、オペラ歌手の和田美樹子が、浮気相手・つわ子として登場。常子は「花の名前を夫に教えたのは私」という優位性を頼みに、つわ子にマウントをかけようとするがあえなく失敗。あっけに取られる常子をよそに、和田による歌唱が繰り広げられる。その場面にはいないはずの夫も、マラカスを持って加わり、常子の絶望とは裏腹に、陽気で明るい歌唱が繰り広げられた。
 帰宅した常子は、「つわぶきの花、知ってます」と夫に話しかける。対して「終わったはなしだよ」と答える夫。これら一連のセリフが何度も繰り返される。それぞれを機械のように繰り返し、会話として成立しなくなり、言葉に意味を持たなくなりかけたころ、福原に夜朗読に切り替わる。
 そして、夫が変わってしまったことを表す象徴的なセリフ「それがどうした」を、常子が『君が代』のメロディーにのせて歌唱。『君が代』は、常子が1人で家にいる時に隣の家から聞こえてくる音だ。舞台の最後は、悲哀に満ちていた。

中村のクリエイションノート

『禍福はあざなえる縄のごとし』

 2つめの『禍福はあざなえる縄のごとし』は、今回が初演だ。『花の名前』のように物語を表すのとは異なり、向田作品を組み合わせ、向田の本質を描いたものだ。

 「禍福はあざなえる縄のごとし」は「人生には幸福と不幸は交互にやってくるもの」という意味のことわざで、交友のあった黒柳徹子のエッセイに、向田の価値観を表すものとして書かれている。

 劇場のスクリーンに、作品のタイトルや、文章たちが現れては消えていく。舞台には、ダンサーと四角い箱があるのみ。
「向田邦子」の名前を作る漢字がスクリーン上で分解され、「邦」「向」「田」の1つ1つにフォーカスしていく。コンテンポラリーダンサーの西山友貴が、箱に対して、縁取ったり、転がしたり、座ったり、持ち上げたり、様々なアプローチをかけていく。同じくコンテンポラリーダンサーの島地保武も登場。スクリーン上に男と女を表すことわざ「一押し二金三男」「女の一念岩をも通す」などが登場し、それに合わせて身体を動かしていく場面あった。ピルエットやリフトなどバレエ的な動きもあったが、1つ1つの動きが何を意味しているのかは、難解な部分が多かった。

 途中で、福原が登場し『手袋を探して』の朗読が入る。『手袋を探して』は、向田が自分自身について記した珍しいエッセイだと、アフタートーク登壇の脚本家・山本むつみは語っていた。
 朗読により、急に動きに明確な意味が与えられたように感じた。手を伸びやかに動かす動きが、手袋をつけたり外したりする動作に見えた。端的に言ってしまえば、身体表現だけでは「今何を表しているか」を理解することは難しく、朗読があったほうがわかりやすい。しかし、難しいが故に観客が、あれこれと考えをめぐらせていたに違いない。

 中村も登場し、阿修羅のごとくの不倫の場面や、上演したばかりの「花の名前」の一場面も繰り広げられた。

まとめ

 『花の名前』は演劇的要素が多く、1つの物語を通じて、向田の文章上の表現を、身体に移し替えたような作品だった。一方『禍福はあざなえる縄のごとし』は、演劇的要素が少なく、物語性もない。身体表現によりフォーカスした作品になっていた。
 向田に感銘を受けた中村が、様々なアプローチで向田に向き合っていることがよくわかるダブルビルだった。


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