主観から離れた私は本当に私なのか。
「己に対して客観的に生きる。」
そんなことは、果たして実現可能なのでしょうか。
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ここ最近の私は、比較的調子良く過ごすことができていて、パニック発作を起こすことがめっぽう少ない。
発作が起きる前に防げることも多くなった。
それはとてもとても喜ばしいことで、嬉しいことで、ありがたいことで。
嬉しいはずなのに、少し寂しい自分が居るのは、なぜだろう。
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ある日、パニック発作の手前まで踏み入れたことがあった。
たまたま彼氏が帰宅したタイミングで、「大丈夫?」と声をかけられた。
これまでの私だったら、そのまま発作を発動していただろうなという状態。
でも、自分を客観視できるようになったおかげか、その日は自分の声を聴いてあげることができた。
「今は大丈夫ではないな」
「声が出せないね」
「今は辛いよね〜」
「ちょっと休んでいよう」
その瞬間、「私、自分を客観的に見てるじゃん」と気づいた。
なぜだろう。
客観的に自分を見れたからこそ、発作を起こさずに済んだのに。
なぜだろう。
私が私ではなくなっていくようで、怖かった。
私が、私から分離していくようだった。
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主観がなくなっていくと、人間は「自己」がなくなってしまうのでしょうか。
私が己を失うほどの客観的視点を持つことなんて、きっとできない。
そう分かっていても、いつのまにか少しだけ"バランス"を身に付けていた自分に寂しさを覚えた。
苦しみから解放されると、そこにはまた新たな苦しみがある。
寂しくない世界に居ても、また別の寂しさに気づく。
ないものねだり。
寂しさは悪者じゃない。
だから、少しの寂しさを感じながらも昨日の自分とお別れする。
お別れするからこそ、今日の自分に出会うことができるのでしょう。
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