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『できることならスティードで』の感想と色々

 脳内でずっと、ト書きが巡っているような感覚を覚えて私はくらくらしながら立ち上がった。私は単純で影響されやすいタイプなので、本を一冊読むだけで簡単に活字の世界に没入してしまう。
 別にいたっていつも通りの駅前の景色の中を、歩いたり、自分が何かの行動を起こすたびに文字が浮かび上がるような感覚が迫ってくる。世界が地の文だらけになった感じだ。それは本を読んでいる間も同じで、今まさに読書という体験をしているにも関わらず、帰ったらアレを調べようだとか、こんな感想を書きたい、ああ自分もこんな時はこういうことを思った、などと勝手に共感して、ツイッターで呟くように脳内で文章を同時生成してしまう。ゆえに私は本から顔を上げた時、さっきしっかりとステーキとサラダとデザートを平らげたにもかかわらず、いまにも倒れそうであった。

 またもや単純そうなことをいうと本を読むというのはある種のトリップ、である。家にいてもどこか遠くや、あるいはまったくの幻想の中へと飛び出していける。のだが、一方で自分の中にどんどんと潜り込み、体のなかをあらゆる文字や風景や空想の動物が支配し、内側が満タンになって張り裂けそうだと、私は感じる。
 そのせいだろうか、私は読書がわりと好きだが、家で本を読むという行為が得意ではない。家は得てして静かで、自分しかいない(私の場合は同居人がいるが)。しんと静まり返ると、部屋全体が自分の内側となり、それが読書体験で満たされ、溺れ死んでしまうような気がするのだ。小難しいことを言っても「宿題をやろうと思ったらお母さんにちょうど宿題やれと言われてやる気をなくす」のと同じ現象に見舞われているだけだ。大人げない。
 そんなわけで、長らく本を読んでこなかった(実に丸1年くらいまともに読書をしていなかった)自分としては、なにかきっかけになるスイッチが欲しくて、自転車をちんたらと漕ぎながら隣駅のファミレスへと繰り出した。(外出自粛が謳われている最中ではあるが、1ヶ月ぶりの外食なので許して欲しい、おひとりさまだったし)

 これはあくまで「読書感想文」として書きたいのだが、今考えていることのすべてが身を押しつぶしそうなほどの活字となってのし掛かってくるので、余計なことをたくさん交えつつ、とにかく書きすすめていきたいと思う。(本の内容に触れるまでだいぶあるので、そこだけ読みたい人は点線のところまで飛ばしてくださいな)

 『できることならスティードで』を発売日に買ったはいいがしばらく読んでいなかったのは、仕事が忙しいとか、きっかけがなくなるほど活字離れしていたとか、色々理由はあれど、大きくは「エッセイを読んだことがない」というのと、「旅が好き」のふたつだった。
 これを書いている現在、世界的に新型コロナウイルスが大流行して、基本的には外出自粛、もちろん旅なんてもってのほかである。旅が好きゆえ、旅を題材にした話を読むのは出かけたがりの私としては、大変よろしくないものだった。たとえ「家から出られないからこそ、読んで思いを馳せてみませんか」と著者であり推しである加藤シゲアキ氏が呼び掛けてこようと、私はとても開く気にはなれず、装幀のシンプルで奥行きのあるデザインや、カバーの材質なんかを触って確かめるぐらいをして、汚さないように無印良品で昔買った布っぽい(実際は紙製らしい)カバーをかけて、出かけるときに読もうと思った。
 そもそもカバーをかけたのは出かける時=つまりNEWSライブツアーの始まりに合わせて、連れて歩こうと思ったからだった。ので上の理由も結局後付けにすぎない気がしてきた。しかし旅がなくなって読む理由がなくなり、いよいよ外出がしづらくなってくると、余計に読みたくない気持ちがしてきたのは本当だ。

 読書家とは言えないかもしれないが、人生において少なくとも100冊以上は本を読んでいると言い切れる。が、なぜか不思議とエッセイは読まなかった。それは「実体験」の本を読むことの面白さが分からなかったからだと、『スティード』を読んだあとは思う。それは『スティード』が面白くなかったということではなく、本を読んだあとの体験、まあ読んでいるときからもだけど、その体験の結果とはどんな文章においても平等だと思ったからだ。面白いか、つまらないか、あるいは、それも分からないくらい難解なのか、当たり前だが読んでみないと分からない。それを読まず嫌いしていたのは、単なる決めつけだと思った。
 大概エッセイを書く人というのはもともと物語を綴っている人や漫画家や芸能人などが書いているイメージがある(専業の人もいるかもしれないが、前述の通りエッセイに対して無知なので許して欲しい)。ゆえにそういった虚構というか、幻想というか、いわゆる「画面の向こう側」みたいなものは見たくないな、と思って避けていた部分があった。しかし、結局エッセイも「画面の向こう側」にすぎず、主人公が実在しているだけで、それに対してどう思うか考える自分は変わらず画面を見つめている自分じゃないか。アイドルだって実在の虚構じゃないか。まあそんなことを言えるのも読んだからなんだけれども。
 ああだこうだと言っているがとにかく、無事読まず嫌いを克服して無事にエッセイを読了できた、というだけである。

 本の感想に入る前に、左下に出ている文字数を見やるとすでに2000字を超えていて引いた。なによりこれを書き始めてから20分くらいしか経っていないことにも引いた。最近読みもしなければ書きもしないのに、よくもまあすらすら書けるな。よく言えば経験は裏切らないという事かもしれないが、単なる手癖で適当なことを書けるだけのような気もする。

 改めて、この度読んだ『できることならスティードで』は前述の通り、アイドル兼作家であり私がかれこれ4年以上推しているNEWS・加藤シゲアキの最新作である。推しだからこそ余計に色々知りたくないし、ただでさえ作家の脳内なんて知りたくない、ああ知りたくない、と駄々をこねるのも仕方がないことである。が、テレビでこの本について取り上げると来たもんだから、それを観る前に読むことを余儀なくされた。何を隠そう夏休みの最終日に宿題を一気に片付けるタイプである。
 何度もいうがエッセイ初体験なので他がどうなっているかは知らないが、この本は連載をまとめたエッセイ集で、それぞれが独立した話が十数本入っている。なので、わざわざ一気に読む必要はないのだが、最初から最後まで一息で読まないと途中でどうでもよくなってしまう性分なので、3時間ほどかけてその日のうちに読み切った。
 今もこれを書きながらも『スティード』の中に登場する一節が、脳内の黒い空間に白い文字となって浮かんで、縦横無尽に駆け巡っている。それらは共感できることもあれば、同じような体験をしてまったく違うことを考えた、と自分の中にある感情や記憶を想起させるものもあった。実際にある土地が出てくるために、自分のことに重ねて想像することは容易い。だからこそ、物語を読むよりもそれは鮮明に私を埋め尽くし圧迫し、疲弊させた。帰りもだらだらと自転車をこいで家に戻ってきたが、座ってしばらくしても息切れしていた。

 自分で書いていて全然中身の話が始まらないから苛立ってきた。長く重厚な旅のあとの体験談、ということで大目に見てほしい。なにせ十数編の話を読んだのだから、文字がとめどなくあふれて仕方がない。
 本当は全部の作品についていちいち触れていきたいところだが、そんなことをしていたら倒れてしまいそうだし、多分だれも読んでくれなくなるから、特に印象深かったものをいくつか書こうと思う。

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Trip.0 キューバの黎明

 そもそも連載が決まったと聞いたときは『キューバの黎明』がとにかく読みたかった。Trip0として収録されているそれは、連載前に単発で小説Tripperに載ったものだった。これがなくては連載は始まらなかっただろう。私がファンになった時点ではすでに当時のTripperは買えなくなっていて、連載し始めてから読みたいと切望してもかなわないことだった。しかしそれが、舞台を調えないと読めない読書無精状態の私にとっては打撃となり、連載中はTripperを買っていたにもかかわらず、一度も読まないまま単行本化されることとなった。
 なんでそんなに読みたかったかというと、なんともくだらない理由なのだが、当時付き合っていた人が吸っていたタバコがCheだったからだ。しかし、Cheのパッケージの人誰だろうと思って調べなければ、タバコの名前がキューバの英雄チェ・ゲバラに由来することは知らなかっただろうし、私はキューバという国の、その文字列を意識的に見ることはなかっただろう。そしてキューバに行った人の体験を読んでみたいと思う事もなかったかもしれない。大げさかもしれないが、エッセイ食わず嫌いを克服するためにチェ・ゲバラは一役買ったと思う。ありがとう、チェ・ゲバラ。

 とはいえキューバが南米であること以外の情報は相変わらず希薄なのだけれど、タバコのパッケージのせいか、なんとなく極彩色の風景をイメージしていた。太陽が照りつける大地はピンクに染まり、古ぼけたような水色の車体に、かつては真っ白だったかもしれない剥げたクリーム色のラインの通った車や、錆びた派手な赤色の軽トラが走っていて、建物や植物もみな、はっきりとした色彩でおおわれている。そんなような風景だ。
 著者による景色の描写は、私の想像する漠然としたイメージを壊すことはなかった。それ以上にもっと雑多で、もっと暑いような気がした。そう感じるのはきっと、実際にキューバに降り立った加藤シゲアキが、そもそもキューバへの想いが凄まじいものだったからというのもある思う。ゆかりのある人物、本、音楽、それら彼の中を埋め尽くしている憧憬のすべてが詰まった夢の場所に辿り着いたからこそ、それは一層に光ってみえたに違いないということが、ありありと伝わってきた。端的に言ってしまえばそれは「本物だ~! 」という歓声。あるいは俗っぽい言い方をすると聖地巡礼(聖地、なのに俗っぽいって滑稽だ)。
 例えばヘミングウェイが実際に嗜んだモヒートを味わう様子であったり、文章の端々に目を少年のように輝かせる加藤シゲアキの表情が見える。それは、キューバの風景よりも想像しやすいからかもしれないが、そういった感情が描写から匂い立つという事でもあるのだろうと思う。

 そんな風に体験がひしひしと伝わってくるのは、その顔にも引けを取らぬ端正な文章が五感に訴えかけてくるからだろうと思う。特に嗅覚。この『キューバの黎明』に関わらず、匂いに関する表現は多く登場する。
 『…どこからともなく葉巻のかぐわしい煙とラムのまったりとした甘い芳香が漂ってくる。』と書いてあるが、その前後も、色、人の体温、音やリズムといった、文字とは違ったアプローチで身体に訴える表現で、この話は始まる。Trip.6ニューヨークでは「オリエンタルな香り」、Trip.9のスリランカでは「エスニックな香り」と、空港に着いた瞬間の匂いの描写がある。
 自分のつたない経験からいうのはちょっぴり申し訳ないが、空港に着いた瞬間というのはどうにも海外に来たという実感が伴わないものだ。それは大きい空港というのは大抵無機質なグレーで、四角四面で一様に空港でしからないからだと思っている。コンクリートの箱から、金属の塊に乗って運ばれて、またコンクリートの箱に戻されている感覚。これを打破する、海外に来たと思わせるファーストインプレッションこそ匂いに他ならないと私は思う。だからこそこの空港に着いて第一声が匂いであることが、自然と私をその国へと誘ったように思えた。これを意図的にやっているかどうかまでは知らないけれど、ニューヨークのところで思わず「ほお」と息をついて一度本を閉じた。

 キューバに話は戻って、根本的なところにはなるけれど釣りからヘミングウェイに流れていくところに加藤シゲアキの広さを感じた。視野の広さというか間口の広さというか、とにかく、なんか分からないけどその探求心ゆえの俯瞰というか、とにかくまあこの人はデケぇな、と思った。見えるもの以外見たくないとか言い出す自分とは対照的だと、早くもコンプレックスで一瞬心が折れかけた。ちなみにヘミングウェイは有名なタイトルがいくつか分かる程度で読んだ作品は短編がひとつきり(しかも課題だったから読んだだけ)。外国文学アレルギーも克服しなくてはならない。
 書きながらもぱらぱらと読みなおしているのだが、シゲアキ氏自ら「憧憬」と言っていて、まあそりゃあ表情も浮かぶわと思ったりもした。が、あまり感想や所感に寄った文章は多くない。繰り返すようだけど、五感に訴えかける表現こそが、彼の憧れから向けられた眼差しの先に映った景色そのものなのだと思う。興味、関心、そして本人がよく言っている入念に調べるという行動が、こうして実際の旅に出た時に見えてくる景色に深みと奥行きを持たせ、その彼の感動が読者の感覚を刺激する文章を生み出している。自分も少なからず鼻腔をくすぐられ、遠くに南米のリズムを感じる……
 この緻密で的確、壮大ながらもシンプルに思わせる文体こそがシゲアキ氏の持ち味であり、私はいつも「過不足がない文章」と読んでいる。

 旅の途中で彼は朝から酒を飲んでいた。それは本の中ではたった一文「午前中は部屋で土産用のラムをストレートで呷りつつ、」とだけあり、私は思わず吹きだしそうになった。昼間から酒とはなんとも旅らしく、仕方なく土産用のラムを開け、割材も用意がなかったのかストレートで味わっている。雨ゆえの想定外を感じさせる一コマではあるが、この後観光するのに酒……しかも土産のラムをストレート……とツッコミを入れたくなるのに、本人ときたらそれに関しては特にこの後触れたりはしない。きっと酔いが回って観光に影響があったとか、そういったことはなかったのだろうが、さらっととんでもないことを書いてあるような感じがして、著者の豪胆さのようなものが窺えた。

 加藤シゲアキもキューバのすべてを見てきたわけではない。そして私はその中の加藤シゲアキの旅の一部を見たに過ぎない。しかし、この経験がまた私という一人の人間の目にキューバへの道を示してしまったことは間違いない。私はヘミングウェイの作品を読み、観光名所を調べ、またチェ・ゲバラのWikipediaを見るだろう。飽き性で忘れっぽい自分が『スティード』の感想を書き終えるまでその興味が持続しているかは怪しいが。逆に言えば、これを書き続ける限りは読み返しては想いをめぐらせ、キューバへ、ニューヨークへ、スリランカへの道に私は想像の道標を立て続けることになるわけだ。その前に一息つきがてら、積んである本(加藤シゲアキが連載中のものを含む)を読んだ方が良さそうだけれど……

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 いつもと違うテンションの文章になってしまいましたが、これが多分本来の文体に近いかもしれない。知らんけど。
 キューバの話だけでエネルギー切れました。今までで最長だから、当然といえば当然……他の感想は追々書くかもしれないし、書かないかもしれない。いやでもまあ「肉体」「小学校」「渋谷」「パリ」とかはちょっと、書きたいかもしれない。(具体的に言っておけばやりそうだから書いておく)
 そんなこと言っても〆切を設けられても破っていく人間なので、自分のことながら期待はできません。頑張れ。

 ぼんすけでした。Salut!

#できることならスティードで #朝日新聞出版 #加藤シゲアキ #NEWS #読書感想文 #おうち時間

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