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子どもたちが自立していくために

我が家の子ども達は、現在小学校高学年の男子。

「おなら」と「屁」の違いについてなんかに興味があるし、ポケモンがどうして子どもと大人の両方にガチで人気なのかとかも語ってくれる。

何時間でも絵を描いているし、最新のおすすめマンガが何なのかを知っていたりする。

毎日のようにマスクを忘れては、取りに帰って来るし、部屋には靴下の抜け殻が落ちていたりする。手に持って出かけた荷物は気がつけばどこかで落っことしているし、傘は3回使うと壊れている。

こんなに寒い日に、タンクトップで学校へ向かうし、帰宅後に学校指定の帽子を被ったまま寛いでいたりする。

カレーは混ぜてから食べるし、おでんの汁は竹輪を使って飲む。ペットボトルのお茶は振って泡だててからビールと称して半分飲んで、1/3になったらボトルフリップを始める。

薬指のデコピンより小指のデコピンの方が威力があると得意げに話し、どんな曲にもボイパをあてて楽しむ。

全く持って理解はできない。だけど、なんだかうらやましいし、おもしろい。と同時にアホかとも思うし、信じられん!とイライラするときだってある。

一人はもう6年生。最高学年ですわよ。
一人は発達障害児。4年生。

この二人の違いなんてものは、そうたいして変わらない。私から見たらどちらも未知の生物。どちらも意味不明で、どちらも全く理解不能。

へぇ〜!ほぉ〜!
あぁ?うそでしょ?
やめてぇ〜!!キャ〜!!
頼むよ…まったく…

まあ、そんな感じなわけです。

だけどさ、だけどね。
それがいいのよね。
そういうところがスキなわけよ。
だから面白いのよ子育てってヤツは。

で、彼らの自立ってものをさ、考えた時にね。
結構重要なポイントだぞ!って思ってやってきた事があるのよ。今日は、そんな事を書いてみようと思います!

私はお母さんだから、お母さん目線のお話になりますが、お父さんがやってもいいと思うの。というか、お父さんこそ得意なんだろうと思う。そして、成長するに連れて親だけじゃなくてまわりの大人がやってあげられたらいいんじゃないかなと感じています。

「怒り」と「涙」

この2つを使って相手をコントロールしてくる子どもたち対して決して屈しない。

「怒り」と「涙」

この2つは赤ちゃんだった頃の最大の意思表示であり、生きていくための本能。生存するための戦略。この2つが無ければ死に近づくのだから、赤ちゃんは「怒り」と「涙」に全力をかけている。顔を真っ赤にして、それはそれは大声で泣く。泣き叫ぶ。そして目的を達成する。

それは本能。私たち人間にはじめからプログラムされているもの。それらを抑えたりコントロールしたりする事は非常に難しい。無くなるようなものではない。死ぬまで共に生きていくしかないもの。

だからこそ、自立のために非常に重要なステップとなる。

「怒り」と「涙」

それ自体は悪いものではなく何事も使い方次第。「怒り」はパワーに変わるかもしれないし、「涙」でリセットできるかもしれない。あるいは、別の効果もたくさんあるだろうと思う。

けれど、生まれて間もない頃のように「怒り」と「涙」を自分の目的を達成する為に相手にぶつけてしまうと必ずしっぺ返しをくらうだろう。それがその場でなのか、巡り巡ってなのかの違いはあれど、本人はきっと苦しむ。

子どもたちを産んで、赤ちゃんの側にいると、否応なしに女の性が動き出す。鳴き声に体が勝手に反応する。それは目の前の命を守るためのブログラム。こちらもまたコントロールは難しい。それはいわゆる母性本能というものに入る。その母性本能とやらは、赤ちゃんの命を守るために一時的に出ているホルモンの影響。やがて少なくなる。けれども、習慣というのは恐ろしいし、変化を恐れるプログラムもある。鳴き声に反応を繰り返してきた女の性は、「怒り」と「涙」によっていとも簡単にコントロールされてしまう。目の前の命を守るためと言うかつての使命が、育っていく子どもたちに徐々に悪さをするようになる。

「怒り」と「涙」を前にした時、必ず心がブレる。命を守るために働いていないという罪悪感に苛まれるから。そして自己嫌悪し、「怒り」と「涙」の要求を叶えてしまう。その方が罪悪感と自己嫌悪と共に過ごすよりも遥かに楽だから。

周りからも、命を守るために働いていないと、見られているのではないか?とさらに不安は増す。そうやって母たちは心の中に葛藤や不安や罪悪感を抱えながら、やってくる「怒り」と「涙」に弄ばれている。子どものほうが戦略的で、より生死に直結している分、上手くやる方法を本能的に分かっている。それが生きる術なのだから。

親になって初めて突きつけられるこの現象をどうやって切り抜けながら、「怒り」と「涙」の使い方を教えていけるのか。それが自立の為に最も重要な事の1つなのではないかと思っている。

「怒り」と「涙」は大切なもの。恥ずかしいものでもないし、イケないことでもない。自分の為に使えるようになれるといい。

私は産後のホルモンはもう出てにゃいの。だから、罪悪感に苛まれ自己嫌悪する必要は無い。もうそのステージはクリアしたのだから、この先は私が私をコントロールしなくちゃね。

母性本能はほんの一瞬のもの。限定品だから価値がある。いつも同じ限定品が出ている店なんて売れていない店ですと言ってるのと同じ。店先に並べるんじゃなくて、せめてデットストックとしてストックにしまい込んだほうがいい。9年前の限定品を店先に並べるのはイケてない。

30年くらいデットストックとしてしまっておけるのなら、いつかまたひょっこり店先に並べるのもいいかもしれない。ノスタルジーという価値のついた、かつての限定品を手に取りたいと思う日もあるかもしれないから。

追記 
(※ベタちゃんありがとう(о´∀`о))

具体的に何をするのか。それが抜けてた。

そう。具体的には、まわりはまず動じない。これが最重要!気持ちを持っていかれないためにも、子どものことを理解するためにも、外側から「怒り」と「涙」を観察します。(←一緒になって怒ってバトルしてぐったりすることも多々あるけども…)

子どもたちがどれほど「怒り」と「涙」を使って要求してきたとしても、決して答えてはならない。

「怒り」も「涙」もそんなに長くは継続できない。必ずおさまるときがやってくる。それまで怒らせておく。それまで泣かせておく。

「怒り」はパワーだから、それはそれは大きなエネルギーが必要になる。このエネルギーが体が大きくなるにつれて同じ様に大きくなる。だから特に男の子の親は早いうちから、怒りを放っておいて静まっていく体験をさせなくてはいけない。あっという間に母の力を越えてくるそれが男の子。

「涙」も同じ。どちらかと言えば男の子よりも女の子の方が多いのかもしれないけれど、小さな子どもならばあまり男女関係なくところ構わず発揮される。

怒りを使ってパワーを発揮した後や、涙を使ってドラマチックにして、自然とおさまっていった後は、たいてい素直に聴く耳を持った状態に戻れる。

怒りや涙を強制的に終了させると、その怒りは、次の怒りのエネルギーとなってしまう。そしてよりエネルギーは増し、親や周りをコントロールし始める。涙も同じく必要とあらばポロポロと涙を使えるようになっていく。

自分でおさめる経験をしたことがないまま、怒りのエネルギーを使い続け、ここぞという時に涙を流せるようになっていく。けれど、その自分のもつパワーやエネルギーに本人が疲弊していく、それを止めるためにまた怒りや涙をを使い、まわりが迎合したり、なだめたり、あるいは暴力や暴言などのさらなる怒りを使って制する事で止められると、本人も周りも勘違いを起こす。

本当は、時間が経てば「怒り」も「涙」もある程度おさまり、自然と落ち着いていくものだと知らなくてはならないし、目の前の子どもが自然と落ち着いていくまで待ってあげることや、放っておいてあげることはとても大切な経験。

自然と落ち着いていったら、それは自分の感情をコントロールできたと言うことで、自然と落ち着いていく時を自分でも待たなくてはイケないと体験しながら覚えていかなくてはならない。←これを周りが邪魔したらダメなのです。

放っておいてあげることはものすごく重要!

アメと無視これが鉄則。(行動分析学の考え方)

「怒り」と「涙」がおさまったら、ようやく話を聞いてもらえるし、あれこれ工夫したりもできる。一緒にアイデアを出し合って建設的な話し合いだってできる。そのほうが、要求は叶えられる。そうやってアメの刺激を与えていかなくてはいけない。

子ども達はとても合理的で戦略的。生きていく為のプログラムと対峙するのだから半端な気持ちではすぐに負けてしまう。この世で最も弱くて最も強いのが赤ちゃん。子ども達はまぁまぁ弱いけど、最も強いのかもしれない。

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