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なぜ、約20年勤めた仕事を退職して、ボリビアに来たのか。


 
わたしは、第一次就職氷河期の中やっと就職できた職場を約20年勤めたころ、中途退職しました。
 
その理由は3つあります。


1.国際協力の現場が好き
2.ボリビアの暮らしに身を置きたかった
3.人生、後半戦がおもしろい!

 

ということで、それぞれお話ししていきますね。



1. 国際協力の現場が好き

2014年、現職参加制度を利用して青年海外協力隊としてボリビアに派遣され、環境教育の中でも廃棄物を主に担当しました。
ボリビアに着いてまず驚いたことは、老弱男女、平気でポイ捨て。市長も車の窓からポイ捨て。学校の先生もポイ捨て。子連れのお母さんがバスの窓から紙おむつを投げ捨てるという状況でした。
これを何とかしなければと思ったのが第一印象でした。

そこで私は、日本の人権啓発の部署の時に心得た、心にワクチンを打つ、ということを実践しました。
どういうことかというと、教育で人権侵害、差別がどういうことかどういうことかを教えておけば、それがワクチンとなり、そのことが実際に起こった時に反応できる、ということです。

もうひとつ。教育は、大人から子どもの一方通行ではなく、子どもから大人へ教育することもあるということも意識しました。
学校での講習会では、ポイ捨てのこと、なぜいけないのか、どんなふうに環境汚染するのか。また、そのまちでは分別回収がなく、ごみが全部混ぜられたまま回収され、そのまま捨てられていたので、市役所と協働して分別回収も始めました。

ある日、一人のお母さんと道ですれ違ったとき呼び止められました。そしてそのお母さんは、わたしにこう言ったんです。

「私、息子から怒られたの。ポイ捨てしたら、お母さん、ちゃんとごみ箱に入れなきゃだめだよ!って。あなたが教えてくれたんだってね。ありがとう。」

これは本当にうれしかったです。私のつたないスペイン語でも、ちゃんと伝わったんだと。その子に打った心のワクチンが働いて、お母さんのポイ捨てに反応して、「ダメだよ!」って言ってくれたんです。
 
ごみの分別を始めたとき、学校の中庭は、ポイ捨てされたごみが散乱していました。でも、4か月後巡回したときは、ほとんど落ちていなかったんです。
ごみが資源になることがわかった子どもたちが、ごみ箱に入れ始めたんだと思います。もちろん、先生方の協力と努力のおかげです。
 
こういった、0から1を現地の人と生み出せた喜びや、伝えたかったことが伝わった時の喜びを国際協力の現場で強く感じることができ、元気をたくさんもらえたので、この現場にい続けたいと思ったんです。


 
2. ボリビアの生活に身を置きたかった

日本にいたときの私は、生きる力が弱かったんです。エピソードを交えて紹介しますね。

今住んでいる家の手洗い式の洗濯場なんですけど、排水溝の蓋がないんですよ。みなさんだったらどうしますか? 
普通、ホームセンターに買いに行こうとしませんか?
ボリビアでは違うんです。

シャツの切れ端とビニールの切れ端が傍に置いてあるんです。これをまるめて蓋をすれば、蓋を買いに行かなくてもいいんです。

 その場にあるもので、どうにかする。こういうことが、ボリビアで生活していると日常茶飯事で、その度に私は、ボリビア人からその場で工夫してなんとかすることを学んだんです。

 日本では、空気を読む、察して行動する文化がありますよね。協力隊で任地に赴任したとき、所属先が市役所だったのですが、はじめて事務室に行くと、私の机と椅子がありませんでした。

来客用のプラスチックの椅子に座って、職員の机の一部にパソコンを置かせてもらったり、膝の上にパソコンを置いたりして仕事をしていました。

仕事といっても、来たばかりの時は何も依頼されていることがなくて、職員の名前を覚えたり、市内の地図を見せてもらったり、どんな仕事をしているのかついて行って観察したりしていました。

机はいつ来るのか尋ねたこともありましたが、そのうち来る、とのことでした。そうこうするうちに、1か月半経っても私の事務机が来ることはありませんでした。

もう膝の上でパソコンを開くことにつかれていた私は、学校配布用に購入されてきたばかりの机付きの椅子を目にしました。ひじ掛けの先端から先が小さな30㎝四方の机がついていたんです。

これだ!と思って、それをせっせと事務室の隅っこに運んで、意気揚々とパソコンを広げていました。すると、数日後事務机が届いたんです。

いつか持ってきてもらえるだろう、察してくれるだろうと待ち続けてもだめだと思ったんです。行動に移すことが大事だと学びました。
 
 

 最初、ボリビア人が時間や約束を守らないこと、計画した通りいかないこと、準備のとりかかりが遅いことにいらいらしていました。

「こうあるべき」という自分のポリシーがあり、思い描いた通りならなかった時に悲しんだり、怒ったり、落ち込んだりしていました。

でも、それはは無駄なことがわかりました。自分が期待していることがあたりまえに実現するとは限らないんだということ、それに備えて次の案も用意しておくこと、時にはあきらめることも必要だということ、そして自分もそうあっていいこと、つまり、もっとゆるくていいんだ、ということに気づきました。

野菜祭りっていう大きなイベントをするときに、ポスターには10時からって書いてあるのに、10時になってもまだ準備しているんですよね。その時間から準備している人も。それでもお客さんは怒らないし、なんとなく始まって、ちゃんと盛り上がって、時間通りに終わる。

「そっか、これでいいのか」と。

現地のある結婚式に呼ばれた時も、夜7時からと書いてあって、その通り行ったら、始まったのは夜9時からだったとか。

ボリビアタイムの時間の間隔はまだ慣れないんですけどね(笑)
不便なところもあるんですけど、ゆるい生活をしている暮らしがなんか居心地がよくて、浸りたい、というのがありました。

 国際協力で途上国に行くっていうと、イメージは、日本人である私が、日本の技術を途上国の人たちに移転するというイメージがありますよね。でも、それだけではなくて、逆に、途上国の人たちから、学ぶべきものがたくさんあるんです。そういう生活感覚に浸りたい、という気持ちがありました。

日本は便利なんですけど、ボリビアの不便なところで生活するのも楽しいです。


 
3. 人生、後半戦がおもしろい!

 人生80年とすると、42歳だった私は、人生半分生きていることになります。

イオングループさんのキャッチコピー「人生、後半戦がおもしろい!」ということで、チャレンジすることが、残りの人生を楽しめるのではないかと思いましたし、ボリビアに行かずに過ごした人生を想像したら、後悔するだろうということがイメージで浮かびました。

いつ死ぬかわからないし、いつ死んでも満足な生き方を選ぼうと思いました。

もちろん、これまでの42歳の人生も、その一瞬一瞬を懸命に生きてきたので、人生の前半も、一つも無駄だとは思っていないです。おとなしかった子ども時代も、日本で働いた経験も、それまで築いてきた人間関係も宝物です。

ということで、私が思い切って退職した理由を述べてみました。

Youtube動画にもまとめましたので、よかったらご覧になってくださいね。

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