洛陽と長安、どちらが東にあるか知ってますか?
2022年の貿易統計によると輸出入総額で日本の最大の相手国は中国で比率にして全体の20.2%になります。
ちなみに第2位は米国で13.9%、第3位はオーストラリアで6.4%。
日本と中国の間には尖閣諸島など様々な問題がありますが、貿易相手国としては断トツの1位!
そのわりには私も含めて現代の日本人は中国のことを知らなすぎる。
中国の歴史と地理をもっと勉強しなくっちゃ!
幕末以前の日本の知識人は、聖徳太子をはじめ、中国の古典に精通していましたし、中国を中心とする国際情勢に非常に敏感でした。
現在でも、ニュースや情報番組で現代中国のことが取り上げらることがありますが、中国の歴史について取り上げられることは稀ですね。
三国志の時代と、キングダムの時代以外は高校で世界史を履修した人が少し断片的な知識があるくらい。
それから歴史好きの人である程度、中国の歴史を知っていても、小説やドラマ、映画からの知識なので、意外と地理と歴史が結びついていないんです。
西の長安、東の洛陽
キングダムは秦の始皇帝とその配下の将軍になった李信の物語ですが、中華を統一した秦はわずか3代で滅び去ってしまいます。
そのころの秦の都は咸陽です。この咸陽こそ広い意味でののちの長安にあたる地域です。
ちなみに、この付近には中国最初の王朝である殷代には豊邑と呼ばれていた都市があり、殷を滅ぼした西周の武王は殷墟から、豊邑の灃水をはさんだ対岸の鎬京に遷都しました。
戦乱によって西周12代の幽王がなくなると、紀元前770年に周は鎬京から東の洛邑に遷都します。ここからを春秋時代と呼びます。
この洛邑こそ、のちの洛陽ですね。
周王の力が衰えて、各地の諸侯が覇を競ったのが春秋時代とそれに続く戦国時代。
秦の都たち
秦の人たちは、最初、犬丘という現在の甘粛省礼県で西の辺境というべきところに住んでいたらしい。今の天水市の南西にあたります。
BC1100年ころに彼らは周王に帰順して西犬丘という場所を与えられます。天水市の西の西山坪遺址がその当時の遺跡ではないかと言われています。
BC771年に馬の生産の功績により周の宣王は秦の荘公に秦亭を与えます。現在の天水市のなかに秦亭鎮という地名がありますね。ここに砦を作ったようです。
そこから秦は春秋時代の紀元前762年に汧水・渭水の合流地点に秦邑を作り都とします。現在の陝西省宝鶏市(ほうけいし)ですね。汧渭之会(けんいのかい)と呼ばれています。
彼らは徐々に東進し、紀元前714年には平陽に、紀元前677年には雍に遷都します。
平陽はのちに秦と趙の間で起こる平陽の戦いとは全く別の岐山の南の渭水の南岸なのですが、正確な場所は調べきれませんでした。
キングダムで古都と呼ばれているのは、この雍城でしたね。ここは現代の天水市と西安市(長安)の中間くらいです。
戦国時代になり紀元前383年、櫟陽に遷都します。現代の西安市閻良区です。
そして紀元前350年に咸陽に遷都します。変法運動を始めた有名な商鞅の時代。長安の北西、渭水の対岸になります。
何回遷都したんだろうと思いますが、春秋戦国時代を生き抜いた秦なので、400年以上にわたる期間ですから、それほど遷都好きというわけではないです。
函谷関はじつは3か所ある
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