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諸葛孔明が戦乱の時代を長引かせた!?

前項までで、三国志の時代の魏、蜀、呉の3国の都についてお話しました。

今回は、三国がどのようにして統一されていったかというお話の前編になります。

諸葛孔明、蜀の全権を握る

劉備に死に際して、「息子の劉禅に才能がなければ迷わずそなたが国を治めてほしい」と言われた諸葛孔明でしたが、劉備の死後、劉禅を第2代の皇帝に据えると、全権を掌握します。

諸葛孔明は1.農業振興、2.呉との同盟、魏との断絶、3.益州南部の反乱の平定と、着々と体制を整えます。

劉備の死から4年、有名な出師表を上奏し、彼は魏への攻勢、いわゆる北伐を開始します。

西暦228年、蜀軍は漢中から魏に侵攻し、おとりの趙雲軍に主力の曹真軍がおびき出された魏は南安、天水、安定の3郡を失います。

漢中は下記のnoteで出てきましたよね。

失われた3郡は今の甘粛省の一部になります。

街亭の戦い

そこまでは良かったのですが、街亭の守備を任せた馬謖が、指示された街道ではなく山上に陣取ったために張郃軍に包囲され、水の手を断たれて士気が低下した馬謖軍は大敗北を喫します。

「泣いて馬謖を斬る」のあの馬謖ですね。

街亭は今の地名で言うと、甘粛省天水市泰安県にあたります。

趙雲も曹真に敗北し、蜀軍は全軍撤退へと追い込まれてしまいました。

あと一歩で長安を落とせなかった、この第1次北伐は魏が油断していたので最大のチャンスだったのですが。

同年冬の第2次北伐は成果がありませんでしたが、翌年の第3次北伐では蜀軍は武都と隠平の2郡を攻略。

231年の第4次北伐では一時的に司馬仲達や張郃を破ったものの、食料不足のために撤退に追い込まれます。

五丈原の戦い

234年2月に呉と示し合わせて第5次の北伐を実施しますが、蜀は度重なる北伐で国力、軍事力ともに疲弊しており、五丈原で屯田を行って持久戦に入ります。

諸葛孔明は魏軍を挑発しますが、司馬仲達は守りに徹して挑発に乗らず、呉軍も荊州などで魏軍に敗れました。

結局、諸葛孔明は8月末、陣中で病没。

これにより蜀軍は全軍撤退し、司馬仲達はあまり追撃を行わなかったために、のちに「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言われるようになります。

実は、司馬仲達は張郃に追撃を命じたのですが、伏兵によって張郃が射殺されてしまったので、追撃を中止したのが真相ですね。

諸葛孔明が戦乱の時代を長引かせた!?

古来より、曹操は悪逆非道で、諸葛孔明は劉備の漢王朝再興に粉骨砕身した名軍師と評されていますが、本当にそうなんでしょうか?

曹操が一番非難されるのは反曹操派だった献帝の皇后だった伏寿と皇子たち、実家の伏氏一族を惨殺したことでしょうか。

別項で書いたように前漢の武帝も皇后だった衛子夫とその子の皇太子ら一族を死に追いやっています。

それ以外にも中国の諸王朝では権力闘争が後宮にまで及んで、皇后や外戚一族が誅されるのは、全然珍しいことではありません。

むしろ、生死の境をさ迷っていた献帝一行を助け出したのはほかならぬ曹操ですし、曹操は娘の曹節を皇后にしましたが、最期まで献帝の臣下として自分が皇帝になることはありませんでした。

にもかかわらず、劉備は献帝の臣下である曹操と、ことあるごとに対立します。

そもそも赤壁の戦いで劉備や諸葛孔明が呉を助けなければ呉は大敗を喫して、曹操の勢力は圧倒的となり、中華は再統一されていたはずです。

「天下三分の計」って、結局のところ3国の間で戦い続けるということなんですから。

赤壁の戦いが西暦208年、司馬炎が呉を滅ぼして中華を再統一したのが280年!

諸葛孔明のおかげで戦乱は50年以上長引いたわけで、その間に、どれだけの人が死んだことやら。

私は曹操とお近づきになりたいとは決して思いませんが、曹操と諸葛孔明のどちらが中国という国と人民のことを考えていたかは明らかだと思うのですが、皆さんはどう思われますか?





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