監督から母へ。その3

前回のリレーエッセイで、くみちょ。は、「初めてのロケで、教室で頬杖をつき、窓の外を眺めるシーンの映像を見て、親バカですが『なんて絵になるんだろう!』と思った」と書いてくれました。

私もあのとき、思いは全く同じでしたーー「なんて絵になるんだろう」。このときの映像が、のちのち映画になったときのキービジュアルになります。映画は、このときにすでに始まっていたのかもしれません。

でも、もともと映画を作ろうと考えていたわけではありません。映画を作ることがこんなに大変だって知っていたら、作ろうと思わなかったと思います。

この20年間、映像を作る仕事をしてきて一番伝えたかったことは、この世の中(特に日本社会)の価値観の幅を広げたいという思いでした。決められた価値観の中で生きることが苦手な私は、世の中の価値観が広がれば、私が生きやすい世の中になるのではないかと思ったのです。

私が生きやすい世の中は、きっと誰にとっても生きやすい世の中であるに違いないという考えは、ただの私の独りよがりかもしれません。でもそう信じることが私の原動力でした。

そんななか、性別に揺れている子供たちのことを知ったのです。2010年のことです。当時すでに「性同一性障害」という言葉はここ日本では広く知られていました。でも私の頭の中では、小・中学生という、まだ自我も確立していない若年層の方々が直面する大変さに思いを馳せることはありませんでした。

うっかりしていました。

私は小学校高学年や中学校時代、とても辛い思いをしていました。どうしても教室で浮いてしまうのです。なぜだか理由もわかりませんでした。性別というのは人格の根幹ですから、性別さえ揺れている子供達は私以上に辛い思いをしているだろうと思いました。彼らのことを伝えたいと思いました。性別のありようがほんのちょっと個性的な子供たちのことを描くことで、世の中の価値観が少しでも広がればいいなと思ったのです。

このときの撮影は、2020年10月5日に世界140か国で放送されました(ただし日本以外)メルマガの読者だけにこっそりお見せいたします。


本来はここで終わるはずでした。「川崎市定時制高校の弁論大会に出場が決まった」というメールが主人公の母から届いたのがそれから2年後の2012年7月のこと。高校生たち700人の前でカミングアウトするという。

自分のことをオープンにすることで中学校を変えた空雅さんが、今どんな高校生活を送っているんだろう。どんな風に周りを変えているんだろう。すぐさまNHKのプロデューサーとかけあって、また取材しにいくことにしました。

弁論大会で「性同一性障害は自分の個性である」と堂々と訴える空雅さんの姿をカメラに収めながら、2年ぶりにあったその姿に私はとても驚いていました。15歳から17歳の2年間という時の流れは、空雅さんをすっかり変えていたからです。ぎこちなかった動きは、軽やかに活動的になっていました。伏せがちだった瞳は、希望に満ちた未来をまっすぐに見つめていました。たどたどしかった言葉は、低くなった声と共に自分の思いを十分に伝えていました。

そしてそれから空雅さんは、私が伝えたいことを一緒に伝える同志となっていくのです。

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