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悩む選択 v2-59:心配するのは時間の無駄よ vs 心配性だからしょうがない。変えられないもの

今日の悩み:
A.心配ごと・不安なことは、いずれ忘れる。先月や去年の今頃の心配ごと?覚えていなくない?心配は時間の無駄。

B.と言われても、心配になる・不安になる。どうしようもない。そう思ってしまうんだもの。そういう性格だから。

心配事の9割は起きない、らしいです。ほとんどが起きないという研究があります。でも、そんな統計分析を有名な大学の心理学者に言われたぐらいじゃね。心配性なひとは心配性です。そんな数字を見ただけで性格はすぐには変われませんもの。

また同じく、自分がコントロールできないことを思い悩み心配してもしょうがない、という話も良く見聞きします。明日の天気とか。でも、そんなこと、当たり前にわかっています。でも、心配しちゃうのだもの。心配性なひとは心配性です。てるてる坊主作ったって、祈ったって、コントロールできない、ってわかったいるけど、明日のBBQの、明日のキャンプの、明日のゴルフの、明日のデートの「天気」、心配してしまう。そわそわしちゃう。

「あなたがどれだけ優秀であっても、判断で打率10割を達成するのは不可能だ。~人生とはそういうものだ。何かを選択するとき、絶対の確信が持てるまで先延ばししたら、ほぼ確実に優柔不断の泥沼にはまる。何もしないのは安心に思えるかもしれない。しかし~それは大失敗につながる。」「失敗を恐れるな。知恵はたいてい失敗から生まれるのだから」(「ビジョナリーカンパニーZERO」(ジム・コリンズ共著、日経BP))なんて話もたくさん目にします。わかります。でも心配して動けなくなるのです。

「石橋をたたいて渡る」という諺。

心配性だと「石橋をたたいても渡らない」になります。性格だからしょうがないですね。そういう自分が心地良くて好きはひとも。一方で変えてみたいと思うひとも。色々挑戦してみたいな、未知を経験してみたいな。怖がりだけど、それなりに挑戦してみたいな、なんて人。両方いそうです。いずれにせよ、石橋はたたきます。で、その後、今、渡るか、渡らないかは、判断です。

ちなみに、ボクは自称、怖がりで、心配性の、前向きな、楽観思考の、挑戦大好き、経営者、を目指しています。だから、たたくこともありますし、たたかないで ”えいや!” でやってしまうこともあります。結果、二度手間になったり、失敗・迷惑もあります。でも、二度手間も大した手間でなかったり、迷惑も「気にしなくてイイよ」って相手に言われて済むケースが多々かな、と思います。

ボクは個人的に、冒頭の心配したことの9割は起こらないを信じています。で、信じているがために、9割は起こらないのです。つまり暗示です。思い込み?心理的な悪影響を排除です。「本当は心配したやばいこと」だったかもしれませんが、楽観的に、「9割は違う・問題なかった」って思い込んでいるから、起こっても起こってないかのごとく思い込んでいる、のです。暗示にかかっているのです。ひとりよがりのやばいやつ、かもしれません。

でも、事前に心配しているときに「心配を詳細に具体的に定義」なんてしないですよね。だから、心配したことが本当に起きたのか、1割起きたのか、3割なのか、7割なのか、なんて決められない場合もありますね。もちろん学校に不合格したというような明確な時もありますが、でも、その不合格が新たな発見を、人生の活力を生むかもしれません。。。

でも、ニュースになるような、世界中で話題になりえるような、意図的な法律違反や不特定多数に甚大な被害を及ぼすような、そんなお粗末過ぎる過ちは避けるべく真剣です。ただ、日々の業務でのそこまでの影響が無い判断ごとは、”えいや!”があっても良いかなと。常に完全は無理、そこまでスーパーマンじゃない、と自分を思っているので。失敗・迷惑・非効率などを受け入れるしかない、そうじゃないと人生を生きていけない、と思って(開き直って)いて。

もちろん、日々の小さな業務でも、失敗や迷惑や非効率は避けれたらいいです。が、考えても結果がどうなるか分からないこと多数なので、行動しちゃえマインドです。

「迷惑はかけるもの・ただし、かけられても気にしない」、「失敗は逃れられない・立ち上がればいいだけ」、と同僚のもぐらさん(ボクのメンターさん)からの指導です。それを肝に銘じています。

で、「石橋をたたいても渡らない」に戻りますが、この諺の「石橋をたたく」を使って、くだらない比喩の話をしたいのです。「どうやってたたくの?」についてです。

問い1: たたくと言っても、どうやってたたくの?

・回数は? 1回?1000回?
・頻度は? すごく速く? 1年に1回のスローペース?
・強度は? 強くくたたく? やさしくたたく?
・なにで? 道具は? ハンマー? 自分の小指で?
・どこで? 渡り出してから? 橋には足をつけずに?
・だれが? 自分で? お相撲さんにお願いする?  
      100人で一度に?
      構造強度の検査会社にお願いするの?
・継続的? 1ヶ月間毎日一回? たったの数秒?

問い2: 仮に橋が落ちたら、どうなるの?

・眼下は? 浅い綺麗な小川? 300mの絶壁?
      ワニが口開けているの?
      子供達が下で遊んでいるの?
・交通は? その橋は誰も使っていないの?
      利用者に迷惑はない?
・弁償は? 橋を壊した弁償はどうするの?
      逃げる? 予算確保済み?

くだらなくてごめんなさい。

で、何が言いたいかというと、「たたく」と言っても無限に方法がありますね。だから、どのように「たたく」かを決める自体が、非常な非常な労力なになりますよね。どうやって決めるのかしら?誰が責任持って決めるのかしら?これ自体が悩ましいです。心配性であるとしたら、このたたく方法自体の確からしさにも心配です。

それにこんな言葉があります。

「石工がハンマーをふるい、岩を割る姿を見よ。百回叩いてもヒビさえ入らない。しかし百一回目には二つに割れる。それはすなわち、最後の一撃ではなく、その前のすべての打撃の成果なのだ。」(「倒されたかどうかは関係無い。立ち上がるかどうかが問題だ」ブランドン・ハースト編、アルファポリス)

「雪のひとひらの重さはどれくらいかな」シジュウカラが野バトに聞いた。「重さなんてないよ」ハトがこたえた。「じゃあ、おもしろい話をしてあげる」シジュウカラが言った。「モミの木の、幹に近い枝にとまっていると、雪が降りはじめた。~傷つくことも荒々しさもない、夢のなかにいるような感じの振り方だった。~ぼくは小枝や葉に舞い降りる雪をひとひらずつ数えた。やがて、降り積もった雪の数は性格に374万1952になった。そして、374万1953番目の雪が枝の上に落ちたとき、きみは重さなんてないと言うけど、枝が折れた」(「シンクロニシティ」ジョセフ・ジャウォースキー著、英治出版)

つまり、石橋を、たたいていたら、いずれ落ちる。

だから、落としたければ落ちるし、落とさないようにもできる。つまり、渡る前から、橋をどうしたいかの意志に結局、左右されている、なんて言えないかしら。

だったら、渡ってしまったらどうかしら。

どうやって橋をたたくかの、正しい・あるべき「たたき方」の方法論を議論して決めるのも相当な苦労それこそ、そこに失敗・過ちがありそうと心配だし、そのたたく方法を決めることにも最初から意志が働いている。橋を壊したいのか、頑丈と示したいのか。

それに、橋を壊していなければ、渡った先がイヤだったら、また戻れるよね。

それに、ひとりぼっちがダメだったら一緒に橋を渡ってくれる仲間がいるといいですね。一緒に(隣で/前で/後ろで)渡ってくれる、信頼できる、支え合える仲間。挑戦を実現してくれるのは、えいやの気持ちと仲間ですかもですね。

だから、心配しないで、渡ってしまっても良いかもですね。

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