「日本国のためにやるべきことをやる」なんて、ありえない。逆だと思う。
友達と待ち合わせしていたら、ごめん遅れる、と連絡が入る。はーい、と返事して、時間潰しに、電器屋さんに入った。するとTVでこんな冒頭の趣旨を言う政治家の姿があった。
ふと違和感を覚える(ま、マスコミに切り取られた一部だっただけ、かもしれないけれど)。
「日本国のため」が起点になって思考・行動するなんてありえないから。あらら、残念な政治家さんだな、と思ってしまう。
そもそも日本国って誰だ? 何だ? そういう全員をハッピーにできるような、総論的な、曖昧なことの実現はありえない、と思う。
例えば、以前、商社に勤めている友人がこんなことを言っていた。世界的に油の価格が上がり、さらには円安で、電気・ガス料金やガソリン代をはじめ、物流費やら、あらゆるインフラ料金、輸入物価があがり、一般論として生活が苦しくなる中で、自分達の会社の売上・利益は大いにあがり、結果、給料・ボーナス爆上がりで、大いに喜ばしい、と。申し訳ないけど、油の値段があがり、円安になる、なんてありがたいね。電気・ガス代があがって嬉しい限りよ。
日本国って誰だ? 円安で喜ぶ人に困る人。社会保障費が増え続け、もはや崩壊しているけれど、それを喜ぶ人に困る人。防衛費が増えて喜ぶ人に困る人。。。
だから「日本にとって良いことは何でもする」はありえないし、政治家のスタート地点ではないはず。逆ですよね。スタート地点は、「私は、こうなることが日本国にとっていいことだ、と思う。私の信念・理念はまるまる・これこれです」のはず。理念でも信念でも願望でもビジョンでも定義は何でも良いのだけれど、自分が目指したい姿が、思考・行動のスタートであり、仲間を一丸にさせるスタート。
その信念・願望を信じるひとが多ければ、期待する人が多ければ、希望を感じるひとが多ければ、支持される。そして周囲が動き、国が動く。
ま、当然に結果はわからない。でも、結果は常にわからないのだから「今」は気にすることではない。
個人の人生も、社会も、国も同じ。抽象的で広い概念に対して良いことをやる、は定義的に不可能。だって、時間も、人も、金も、「制限」されているのだから。地球という制限された時空・資源からはボクたちは逃れられないのだから。それがボクたちの仕組みなのだから。
だから、自分がこうやりたい、という理念・ビジョンが常にスタート。
そして、その理念・ビジョンが、利己的であれば自分独りでがんばるしかない。仲間はついてこない。一方、利他的と信じられる理念・ビジョンならば、チカラを貸すよ!と集う仲間が増えていく。利他的であればあるほど、仲間は増える。
ガンジーの言葉、
「理念なき政治(Politics without Principle)は大罪」
まさにその通り。
「目標を立てることが、考えるという行為の条件となる。思惟のための思惟などということは、蓄財のための蓄財のように、異常であり空しいことである。「願望は思考の父である」というのは、正常な人間思惟の根元を的確に表明している」(「危機の二十年」(E.H.カー著、井上 茂訳、岩波書店))
ちなみにこの本は、「20世紀国際政治学の記念碑。戦争と平和と国際政治を考えるための必読書」と言われています。
会社だって同じ。「会社にとって正しいことをやる」はありえない。自分はリーダーとして、「こういう会社をつくりたい。こうやって社会に貢献したい、こんな職場・人間関係・上下関係を作りたい」というビジョンを表明することがスタート。
ところが最近の政治家も、経営リーダーも、なかなか明確で大きく利他的なビジョンは打ち出せないものですね。。。
おそらく、世の中が一定のレベルで裕福であるし、一方で、とても複雑で、多様で、(まとまりがない)個性重視の時代だから、どんな利他を目指して良いかが湧き上がらない。多くのひとが、若い時にこれを変えねば!こうあらねば!と強く思わせる屈辱的な経験もない。だから心から湧き上がる改善要求がない。
さらには権力が分散され、細かいこともチェックされ、熱い信念・理念が心から沸き出たとしても、実行する面倒くささがハンパない。だから、しんどいだけで、不毛に終わる。だから、さっさと諦めよう、となる。首相がころころ変わる本質かもですね。。。
でも、こんなVUCA時代だからこそ、人口が減少していく時代だからこそ、「いいね!」と思える利他的なビジョンが必要なはずなのだけど。。。
と思ってしまったのでした。。。
お読み頂きありがとうございます。
(v9_61)