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本に知識を求めたら危険? 知恵を求めるべき?

後輩が痛烈批判、ボクが面白く読んでいる本を。ま、世の中で聞かれる批判を多々紹介してくれた、ということなのだけど。。。

会社でお昼休みに本を読んでいたのです。そこにたまたま来た後輩から「何読んでるんですか?」と聞かれたので、「こんな本なの。とても面白いんだよ」と伝えたのです。

そしたら「あっ、知ってます。結構、批判が多いやつですよね!色んな科学者から批判されているんですよね。XXとか〇〇とか」とのこと。

むむむ、面白いんだよと伝えた後の反応がこれ? なんだよー、可愛く無いなぁーと思ったのです。でも、踏みとどまりました。

むかついたけど、このことは、まさに本の読み手が注意すべきだと思ったからです。

科学は進歩します。一昔前の事実が、真理が、くつがえされる。新たな発見で事実が変わる。コペルニクス的です。自分は面白いと思ったけど、批判する学説も当然あるだろうし、色んな関係性でひとは批判します。みんな批判好きですね。正当なことから、とりあえず批判しちゃえ、まで。

ボクは自分が今読んでいるこの本の批判は知りませんでしたが、現地での出版は10年ほど前ですし、作品を仕上げる年月も考慮すると、基本にしている情報はもっと前のものですね。当然、今に至るまでに、新たな調査、実験は進みます。より正しい事実?見解?はありえます。

本から知識を得ようというマインドは時に危険ですね。特に科学や歴史に関する本の場合は。更に古典的な位置づけの本を読む時はさらに注意しないとですね。今は当たり前の学説とは全く違う学説に、本の世界で出会って、わくわくして、納得(正しいと誤解)してしまう。

小説や伝記だって、うかうかしてはいられません。その物語で描かれる当時の社会とか、その当時から見た過去の歴史的出来事・背景は事実では無い、なんてことも。。。

でも、読みたくなる古典はあります。自分の専門でないことは、例えば現在の学会では何を正しいとしているかなんてわかりません。例えば、ボクの場合、海外文学や生物学、動物行動学、人類史、経済学は好きな分野ですが、好きなだけで、詳しいわけではありません。何が正しいかなんてわからない。

でも、読みたくなるし、読んだら、誰かに伝えたくなります。人間って1万年前はこうだったんだよ、こんなことが起きたんだよ、とか。でも、それは本当なのか? わかりません。

なので、気をつけるんです。

「xxxx年に日本で最初に発売されたXXって本にはこんなことが書いてあるんだよ。今は違う事実が解明されているかもだけど、なんだか、真理っぽいし、面白いよね。確かにそんな気がするよね」

こんな風に言うのが良いカモですね。面倒ですけど。

さらには、その本が伝える事実ではなくて、知恵というのか、考え方を得ようと気をつけて読む。これが真の学びのようにも思えます。知識はもちろん大切ですけれど、知識が危険ならば、知識からちょっと離れて、色んな考え方を学ぶ、ということです。

思いもよらない定義に新たに接することもあります。自分でなぜか勝手に気づくこともあります。コペルニクス的転換でどちらが正しい、ということではなくて、新たに知った考え方も含めて複数の考え方がどれもアリに思える。

結果として思考の選択肢が増え、日々、課題に直面した時に、どの選択肢で対応するのかを考え、選べるようになる、と思うのです。

もちろん、新たに知った考え方に感銘し、自分もそういうポリシーで生きようと決意し、過去の考え方は劣後させる。客観的に見て成長なのか、退化なのか、わかりません。でも、変化できた自分なりには成長です。

職場にも、家庭にも、社会にも色んな仲間がいる。色んな選択肢がある。本から学んだ色んな考え方を有効活用して仲間を鼓舞し、自信を持たせ、勇気を持ってもらえたりすると、良いですね。

無知でもイイ。色んな考え方を持とう。そう思いました。

職場を良質にするコンセプトv6_21
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。


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