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SNS等での不明瞭な曖昧表現。勇気・自信がない?でも、素敵な優しさでもある

「XXな姿勢を続けると頭痛の原因になりえます」って、そんな広告を電車内で見たのです。

で、「なり”え”ます」って、そこまで自信なく、回りくどく言わなくていいのにな、って思ったのです。

だって「頭痛の原因になります」は「必ず頭痛になる」と言っている訳ではないし、原因になるよ、だけならノーリスクのはず。。。

でも、広告主さんも、代理店さんも、色々と考えてのこの表現だから、原因になると言ってしまうと、頭痛になる、と同義かもしれないし、そう思う人もいるかもしれないし、「薬機法」やら「表示法」の規制なのかもしれない。誇張表現・優良誤認はダメよ、ってことかな。

いずれにせよ、無難がいいのかな。

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このnoteもそうだけど、SNSへの投稿も、このような広告や発言も、ストレートに「評する」ことや、あるいは「事実として伝える」ことは、避けたくなる。不特定多数への発信ですし、「残り」ますものね。

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「自分に正直になることで、大切なひとを傷つける、ことがある。それでも貫くか。自分を曲げるか。悩ましい」

そんな主旨が高校生の頃に読んだ本に書いてあった。アメリカのジャーナリストが苦悩の心を吐露している本。そんなことは当たり前だけど、それまでこのことを真剣に考えたことがなかったから、とても心に残っている。

(「マッカーシー時代を生きた人たち 忠誠審査・父と母・ユダヤ人」
(カール・バーンスタイン著、奥平 康弘訳、日本評論社))

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心に残っているけれど、そりゃ、大切なひとを傷つけようが、自我を貫くべきだ、なんて思っていた。。。

でも、それは正しくない、と今は思っている。「妥協」と言えば「妥協」だけど、「ANDの才能」とも言えるし、「巧みにバランスを取っている」とも言えるし、正直でありがならも、大切はひとを傷つけない方法があると思う。それに、傷つくにはそれなりの理由があるのだからそこから学ぼうと思う姿勢に価値があると思う。最終的には自我を貫いたとしても。それに、もしかしたら自分が単に未熟で、勘違いしていて、何かの先入観に欺されているだけの可能性もある、と思うから。

自分の夢や想いを否定するようなひとは無視したらイイと思う。けど、自分の夢をつらぬくことで傷付くひとがいることは真摯に受け止めて、学ぶべきだと思うのだ。

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広告やらSNSで、自分の主張をちょっと柔らかくすることに話は戻るのだけど、例えば、「だと”思う”のです」とか、「頭痛の原因になり”え”ます」とか、そんな表現は弱いだけ?逃げているだけ?

こんなは、勇気がなくて、自信がなくて、怖がって、主張を控えめにしている、こともあるだろうけど、一方で、自分の主張で不用意に傷つけるひとがいるかもしれないから、優しさの強さで、柔らかくしているケースもあると思うのです。

別に誰かを傷つけたい訳ではない。自分の気持ちを文章や写真などにして皆に見てもらう前提だから、励みになって、努力しえるから、それが学びになるから、やっているだけ。だから、ストレートに強く主張する必要は別にない、とも思えるのです。

だから、前言撤回で、割り切れない表現も、ま、ありかな、なんて思ったのでした。


読んで頂きましてありがとうございます。
(v8_39)


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