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「引きこもり先生」

このドラマを見てるとつい考えてしまう。高校の時、君に、僕はひどいことを言いはしなかったか。もしかしたら、僕の言動が君を傷つけたんじゃないか。良かれと思ったことが、君の負担になってたんじゃないか。


僕は引きこもりでもなかったし、いじめられもしなかったし、隠れ不登校でもなかった。学校を本気で休みたいと思ったことはない。わからないまま、結局君を傷つけてたかもしれない。見て見ぬふりをする加害者側だったかもしれない。


不登校や引きこもりを取り上げたドラマや小説等の作品を見るたびに気になって手に取るけれど、見終わった、読み終わったあとに、「大丈夫、自分はこうだったから責任はない」「仕方なかった」「僕は声をあげたからいいんだ」って言い聞かせてる、言い訳してる自分がいる。仕方なかった、僕にできることはやってた、だから僕は彼の不登校とは無関係だと。いっそ心配してたんだから他の人より随分マシだと。引きこもりとか不登校への理解もあると思っていた。今も社会一般よりはあると思っているけれど、本当に解っているかはあまり自信がなくなってしまった。noteには色んな「当事者」の方がいて、知ったかぶりするのはよくないと思うようになった。解らないことは解らないし、でも理解したいとも思う。馬鹿にしてる、見下してると思われない程度の態度を身につけるための知識と理解がほしい。そして願わくは、大切な誰かを救うだけの力が。


きみの力になれてただろうか。


本、貸してくれてたけど嫌だったかな。面倒だったかも。行かなきゃいけない(から行きたくない)足枷の一個だったかも。早く全部読み終わってほしかったかな。すっきりしたかったかな。


卒業しても連絡してたけど、やっぱりうるさかっただろうか。なにもする気がないのに、中途半端に踏み込んでこられて嫌だったかもしれない。そうでなかったと、思いたい。


でも内心は、人生の勝ち組が(この言葉大嫌いだけど)、理解者面して話しかけてくんなよって毒づいていたかもしれない。ぶりっ子の阿呆だと思っていたのかも。


それとも本当は、少し嬉しかったこともあった?君の力になれたこともあった?


そうだといい。理解したい、理解しようと思う人の言動や態度が、全て相手にとって優しいものであればいいのに。全て正解ならいいのに。


勇気をもって、それは違うよと言う、見て見ぬふりをする大人にはならないと決意する、君におはようと言う、そういうことが簡単にうまくいけばいいのに。


だけど大人も大人で、結局、色々なものを背負ってしまってもいて。嘘をつくしかなかった「先生」のように、僕らは気持ちの悪いもの全部に立ち向かうことはできない。


だけどさ、僕は僕で少しくらい言ってもいいかな。僕の大事な高校時代の彼と、僕の父親のために。



学校には行かなくてもいいんだ。引きこもりでもいいんだ。でも「ダメな自分だから」学校に行かないのはたぶん違う。言い訳を並べるのも違う。自分をすり減らすくらいなら行かなくていい。でも卑屈になるのは違う。だけど学校に行かない「劣等生の自分」は、つい卑屈になる。なりやすいと思う。それならやっぱり、僕は君に学校に来てほしかった。でもそうならずに楽しく自分らしくしたいことができるなら、別に学校に来なくたってよかったんだ。(君はどこか危なっかしいところがあって、たまにでいいから学校に来た方がうまくやれるんじゃないかと思っていたけど。)


僕の言動や態度が、選択が、間違いではなかったと言ってほしい。正解とは言わなくても悪くはなかったと言ってほしい。救われたと言ってほしい。、、なんて、なんと利己的だろうか。


僕が君に伝えた言葉が、全て君のプラスになっていればいいのに。君の前で溢れた涙が、どこかで、君のあと一歩の支えになってくれるなら、いいなあなんて。都合よすぎるだろうか。





君は今、元気にやっている…?







昨日このドラマを見てから何となく思い出してしまって、高校のときのことを文字として残しておきたくなりました。次の記事は「高校時代の彼」についてのエピソードを書けたらなと思います。自己満足のための備忘録ですが、気が向いたら覗いていただけると幸いです。


最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。