輪投げ

一風変わった輪投げを、僕は想像する。

それは透明の輪投げだ。輪投げの的、あの棒が透明の輪投げだ。輪投げを投げるのは僕じゃない。強いて言うなら、それはたぶん僕の話し相手だ。彼(もしくは彼女)は何かをしゃべる度にその輪投げを投げる。その輪っかが本当に命中したのかどうか、僕は判断することはできない。きっと透明の輪投げは誰かに向けられたものじゃなくて、単に僕が勝手に、誰かの輪投げを観戦しているに過ぎないんだろう。そんな傍観者の僕には、スポットライトの当たった暗闇の真ん中に、投げられた輪っかがぽんと現れていくように見える。

次々と現れる輪っかは、どこか一点を目指して投げられているみたいに見える。勿論僕にはその輪投げの中心は見えないのだけど、確かにその透明の中心を感じることがある。

投げられた輪っかの中には、中心から随分外れてしまったものもあるだろう。中心の棒にはじかれて、惜しくも入らなかったものだってあるのかもしれない。だけど、恐らくは、投げられた輪っかは透明の中心の近くに散らばっているのだろう。そんな風に僕は考える。そしてその透明な輪投げの中心を、見つけてみたいと思う。


これは一体何の話かというと、誰かの性格とか主義とか、芯とかいったものに対する僕のイメージの話だ。


誰かの言動は、きっとその人の芯を中心に、輪投げの輪っかみたいに広がっている。中心に入っていても、右寄りだったり、左寄りだったりする。でもそれでいい。中心から外れてたっていい。いくつもの輪っかを集めて重ねて見たら、何となくかもしれないけれど、誰かの透明な輪投げの中心を見つけられる気がする。

僕は芯のある人が好きだ。はっきりした芯であればあるほどいい(その方が見つけやすい)。はっきりした芯を持っている人は、輪投げが総じて上手い。輪っかを中心に集めるのに長けていて、小さな輪っかでも中心に入れてしまう。

逆に芯のぼんやりした人もいる。そんな人は広い範囲に輪っかが広がっていて、ときには二つの中心が見えるように思われることもある。そうなると、どちらがより本当の、正確な中心なのかが分からなくなって僕はどうにも混乱してしまう。

誰かの輪投げの中心を見つけると、僕は少し安心する。その人はきっとその中心をなくさない、そう思えたら、またほんの少し安心する。どの人の輪投げの中心も、きっとまっすぐ伸びている。まっすぐ上を向いて立っている。僕はそんな風に思っているし、そんな誰かの透明な中心がきっとこの先も倒れずに存在し続けることを、僕はいつだって願っている。

最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。