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改めまして、「ぼく我わたし」です。

春先、暖かくなってくると1日中眠さがまとわりついてきますよね、どうしてだろう、こいつは強敵だぞ。。(布団の中からの文句になります。)

こんばんは、ぼく我わたしです。
私事ですが今回をもってnoteの投稿が10回目となりまして、そういえば名前の由来について書いてなかったなあと思ったわけでありまして。
僕なりに考えた名前ではあるし、せっかくキリのいいタイミングなので書かせていただこうかな、と。
僕の悩みと「ぼく我わたし」という名前の由来について、今回はそんなお話。

「僕は僕が分からない」

僕は人見知りなうえ、まあまあなネガティブ人間である。
そんな僕にはこれから関わることになる人間を観察し、各人との関わり方を考える時間が必要で、これまたまあまあな時間がかかってしまう。
「人間観察」と言ってしまうと大げさな気はするが、言うなればこれは僕が他人と関わるために必要な「儀式」といえるだろう。
その儀式を経たとしても「八方美人」と呼べるほど器用には僕は生きられない。
何故なら「儀式」は僕が各人に合わせて性格を変化させるためのものではなく、「僕が僕らしくいられるための距離感」を見つけるためのものだからだ、距離感が変わるだけで別に僕自身の性格が変身するわけではない。
それで何とかなってきた、何とか生きてこれた、僕なりに「上手く」生きているつもりだった。
生きていく中で様々な人と出会い、様々な関係性が生まれる。
家族においても両親や兄弟、祖父母、友人、教師。
先輩、後輩においても部活、バイト先、サークル、職場などなど、とにかく長く生きるほど人との繋がりが増えていく。

僕は「八方美人」が嫌いだ。だった。
人によって上手く態度を変えて生きている人に対して、「誰とでも上手く付き合っていける自分に酔ってんのか?気持ちが悪い。」と本気で思っていた。
ひねくれていたと思うし、今考えたら妬んでいたんだろう、誰とでも上手に付き合っていける方が良いに決まっている。
大学に入り、サークルに入って先輩と関わるようになり後輩ができた。
ある日、友人に言われた言葉が忘れられない。
「お前先輩とも後輩ともタメともうまくやるよな、ずるいわ~」
ハッとなった。
確かに誰に対しても失礼の無いようには気を付けていた。
僕なりに人を分析して「ここはこう言うべきなんだろうな」を繰り返して、でもそれは僕個人の主観によって導き出された正解であり、自己満足に他ならない。
いつの間にか、僕は僕が嫌っていたはずの「八方美人」になっていた。

僕は僕が誰なのか、分からなくなった。


「ぼく我わたし」

仕方のないことだとは思う、人と上手く関わっていくことは生きていくうえで必須なスキルだ。
当たり前のことだ。
人の感情を僕なりに読もうと躍起になった結果、僕は僕が分からなくなった。
けれど、それが僕という人間なんだと思う、きっと。

ネガティブで自信のない「ぼく」。
気分屋で嫌なものは嫌な「我」。
当たり障りなく気のいい「わたし」。

1人の人間ではあるけれどいろんな側面がある。
自分が誰なのか分からない、それでいいのだきっと。
そんな自分がきっと僕なのだ。


改めまして僕の名前は「ぼく我わたし」といいます、記憶に残していただけると幸いです。

p.s.「ぼく我わたし」という名前にするにあたっては書いた通りの悩みがあり、自分なりの答えとして導き出したものになります。もし同じような悩みを抱えている方がいたら、自分に言ってあげてください。それでいいんです、あなたはあなたです。

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