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インスタントフィクション妄想解説#4「ロックンロールは世界を変えて」

noteで投稿されているインスタントフィクションを勝手に解釈させてもらっています。どうも墓穴掘男です。

今日は2022年6月5日に投稿されたバッククロージャー室岡さんの「コバンザメ」を妄想解説したいと思います。

あくまで個人の会見であり、作者の意図を読み取ったものではないことはご了承くださいませ。
※下記から内容のネタバレが入っているのでぜひインスタントフィクションの記事から閲覧ください。

コバンザメの生き方

この物語は、まず中学2年生だったある少年の夢から物語が進んでいくのだが、ここではまず主人公のことを「僕」としよう。
「僕」は「ロックスターになりたかった。」のだが中2の時点でそれはもうあきらめているらしい。中学2年生の年齢の時期っていい意味でも悪い意味でも将来の不安や夢なんてものが曖昧だったり、あやふやだったりしてむしろ「今」を生きている少年のほうが多いだろうに、「僕」は現時点で将来の方向性や生き方を見定めた行動をしようとしている。正直、わたしはこんな中学生ちょっと嫌だなとも思ってしまった。なぜなら「僕」は自分の才能の無さを把握し、先行投資として天才の友達になってバーターで売れることを目標にしているところが夢としてちょっぴりダサい。そしてそんな「僕」を「コバンザメだ。」と「僕」自身もわかっているところもなんだか夢がない。コバンザメってそもそもどんな生物か知ってますか?コバンザメは「サメ」という名前ではあるが本当はスズキの仲間で自分より大きな生物に張り付いて自分の身を守ったり、その大きな生物が食べ散らかしたものをついでに頂いたりして寄生のように生きている魚のことだ。張り付く際の吸盤が小判のような形をしているのでコバンザメと言われているが、その生き方は悪い方に比喩表現として使われることが多い。

そして「僕」もそんなコバンザメの生き方を中学2年生のうちに理解し、将来は「大物」にくっついてついでに売れようとしているところはなんだかマセガキの悪い代表例みたいだ。どうしてそこまでしてロックスターをめざしているのか?

「僕」という人間像

わたしが中学2年生のときなんてもっと適当に生きていたと思う。将来の夢なんてものはそこまで指標もなく、部活しっかり練習しなきゃとか、友達と早く遊び行きたいとか、気になるあの娘のこととか、もっとその場の現実に生きていてた。しかし「僕」はそんなことも見越した上で将来の夢に向かって先行投資や行動を行っている。逆に言えばロックスターを目指しているもののしっかり者だ。「僕」をこういう性格にさせてしまったのはたぶん親の影響が大きいのだろう。これは妄想だが「僕」の家族はすごく真面目で現実的な親だったのではないだろうか?そもそも親の仕事の都合(父親と思われる)で「僕」も転校しているうところをみると「僕」以外にも母親の苦労もまた大変だったに違いない。だから母親は「僕」に対して安定した仕事や高収入な職業につくように「僕」が苦労しないようにそれこそ先行投資をしていたのではないだろか。英才教育で幼少期から英会話やら塾やらに通い「僕」という少年はそれを受けて現実的な感覚が身についていたのではないだろうか?
だがしかし、そんな母親を裏切る形で「僕」の夢はロックスターを志してしまった。きっと転勤で忙しい父親が唯一「僕」の幼少期に父親らしいことをしてくれたものとして趣味にしていた音楽に触れさせたに違いない。80年代〜90年代のレコードを聴かせては一緒に過ごしていたのかも。
「僕」はその時のロックンロールに触れて脳が揺れた、しびれた。そして「僕」もロックスターになりたいっと純粋におもったのではなかろうか。
だがそんな夢にたいして現実的な母親は絶対に反対したに違いない。そして「僕」の純粋な心を現実的な言葉や理論でケチョンケチョンにした結果、なんとか抜け道を見つけた方法として「僕」が見出したのが「コバンザメ」だったのではないか。

髙田という存在

そんな「僕」が真っ先に目をつけた人物が「髙田」だった。
「髙田」は風変わりでクラスでは一匹狼だったそうだが、たしかに中学時代にいた友達も作ろうとせずにいるクラスでは浮いたやつってなにか不思議な魅力があったよな。中学時代に存在するどのグループと仲良くなるかで変わる絶対的ヒエラルキー。わたしはそのヒエラルキーの中では低いグループに所属してヒエラルキートップ(私の時代ではヤンキー)の給食の食器を片付けたり、掃除当番を代わったりしてイジメの対象にならないよう生きていたが、そんなものにも属さず、逆に言えば忌み嫌われることもない存在は少なからずいた。「髙田」もそんな存在だったのかもしれない。そして「僕」はそんな髙田を将来のロックスターにすべくコバンザメとして行動を開始した。「髙田」は音楽の知識がないので、「髙田」に音楽の魅力を熱弁したと記載されているが、「僕」は「髙田」をこの時点でプロデュースしている感覚なのだろう。でも音楽知識のない「髙田」にとってはどれだけ「僕」の行動や音楽の魅力が響いたのであろうか?もしかしたら、「僕」が熱弁した音楽に対して興味を持ったかもしれないが、ロックスターを目指したくなったかは怪しい。だが、物語の展開をみると「髙田」の存在は「僕」の人生を大きく左右させたと見える。

20年後の「僕」とロックスターの夢

クライマックスは一気に20年後へ。
いままでの「髙田」とのエピソードや自分のコバンザメとしての行動が「ふと、そんなことを思い出した。」「僕」は目の前のフォークシンガー候補を見終えてコンテストの結果発表を待っている。まぁ普通に考察すれば、「僕」が音楽関係のコンテストで審査員をしているということは「僕」が音楽アーティストとして審査員になっているか、もしくは音楽プロデューサーとして審査員をしているかのどちらかだ。わたし的には後者だろうと思う。そして彼が中学時代を思い出すくらい印象的だったのが目の前のフォークシンガーに可能性やロックスターとしての将来性を感じたんじゃないかな。ここで「フォークシンガー候補」という表現を使っているのは音楽プロデューサーとしての目利きが彼女をフォークシンガーではなく、ロックスターとしてプロデュースできるほどのスター性を感じたからではないかと考えられる。そして「僕」はふと過去を思い出しては、彼女ほどの才能や天性があれば「コバンザメ」のようなずっこい事を考えなくても、音楽の神様に導かれるのであろうという感覚を「僕」自身もまた見抜くほどの力をこの20年で身につけた。「僕」はロックミュージシャンとして「髙田」のコバンザメになるのではなく、新たな才能や天才たちを陰ながら支えてロックスターを導く音楽プロデューサーとして「コバンザメ」の最終形態になりえたのではないだろうか。比喩表現で「コバンザメ」は権力者をすがるという悪い意味合いで使用されがちだが、ここまで「コバンザメ」として大きな存在を支えている良い例はないだろう。
最後に「僕」が「どうしてここに座っているのか、才能も努力もないのに」という言葉で締めくくられているが、ここはいい意味で皮肉に繋がっている。ロックスターとして天才ではなかったが、ロックスターを見出して、天才を育てる音楽プロデューサーとしての天才としての感覚が本人にはないという皮肉。「才能も努力も無い」と思っていることが自分がやっていることを努力と考えていない天賦の才が発揮しているのではないかな。そしてそんな「僕」が審査員でありながらも感想を求めている存在が「髙田」だ。なんだかんだ「僕」の才能を一番肌身に感じていた存在は「髙田」だったんじゃないかな。そしてそんな「僕」の躍進を陰ながら支えている存在として「髙田」が「僕」のコバンザメになっている感じもこの文章の面白いところでもある。

「僕」から輩出したロックスターがまた誰かの心に火をつけて、そしてまた「僕」のような存在の物語が受け継がれる。
わたしの好きなバンド「銀杏BOYZ」の「エンジェルベイビー」という曲の歌詞には「ロックンロールは世界を変えて」という言葉がある。わたし自身もこの曲や歌詞に何度も救われてきた。わたしもこのバンドにはじめてであったのは中学2年生のとき。そんなことを思い出した。
音楽って本当にいいよね。

そんな思い出を思い出せる「コバンザメ」妄想解説させていただきました。

すばらしい作品を作っていただきありがとうございます!

またぜひインスタントフィクションの投稿楽しみにしています!

それでは、さよならまた今度ね。

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