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ステートメント草稿

「置き去りにされた鏡」
 
 今朝、鏡の前に立っていた。
「幕間」と「鏡」この二つのタイトルの間を行ったり来たりの日々が続き、私はほうっと息を吐く。
鏡の表面は少し曇り、寝ぼけた老女の顔が映っている。その背後には緑の引き出しと、描きかけの絵に洗濯物。
手にしたスマートフォンで反転した自分を撮影する。
 
 インスタレーションの作品から「picture」にスピンオフしてしばらく経つ。私は物語や記憶の発生装置として、インスタレーションの構造を作っていた。もうかなり時が経ち、私の住む社会構造は急速に変化した。物語や記憶をテーマに今、何が作ることができるのだろうか。
 個人の記憶や物語は点在する大きな物語へと急速に結び付けられ、争いと協調という二面性を持つ「共有」の中でタイトルも主人公も薄らいで途切れた山脈が重なり合っている。
  記憶の瘡蓋を剥がし続け、物語=ナラティブの闘争が重苦しくのしかかる現在の日常では、今までとは異なった「物語る技法と態度」を私は求めている。そんな時に「幕間」はある時現れた。
 
 風景が光景に変わる前に、あるいは光景を風景に変える前に、舞台の幕が上がるその前に、舞台の最中にも出番を待つものが日々の生活を営み、何らかの生を描いている。「幕間」は明るさと暗さの場所を自由に行き来できる空間として存在する。
 
 生を描く作業は「幕間」で行われる。しかし「鏡」の歴史に吸い込まれてなかなか描くべき舞台が見えてこない。夜に月明かりでうつる水鏡のような、おぼろげな画像が無数に現れては消える。手のひらに収まるスマートフォンのの画像は今や最も鮮明だ。しかし、それらは記憶の引き出しに入ると、鏡像も輪郭が滲みコントラストも変わる。色彩も全く変化してしまうのだ。しかし、今回は絵画と鏡の歴史の落とし穴に入りたくない。

 そのために何が必要なのか。記憶、そうだあの面倒な私個人の記憶を呼び戻してみよう。初めて鏡に映ったものを見たのは、夜、ガラス戸に映った怯えた自分の顔だったか。そして大人の女の匂いのするコンパクトミラー。過去の幕間からつながる記憶の中の鏡はおぼろげで、電球は切れかけて点滅を続けている。見えていないものを、見えていると思い込んでも仕方ないもの、それが「鏡」だ。
 
 「鏡」に記憶の包容力はない。私やあなたが見たと信じているものをただ映す。
 
 この展覧会は、ディレクター林聡氏から「鏡」というテーマを、モノタイプという版画の技法と重ねて提案されたことが契機となっている。ガラスまたはアクリル板に絵具やクレヨンで描いたものを紙にうつしとる。左右反転し、筆触や絵具の盛り上がりがないものに変化した、あっさりとした質感のものが出来上がる。しかも、一枚のみである。なぜ、一枚の転写のためにわざわざ絵を描くのか。「鏡」という意味深い言葉と、実際に出来上がった軽やかな画面との大きなズレはとても悩ましい。
 
  世界をスマートフォンで見ているうちにも、昔話のような物語は突然やってきて、そこには「幕間」も「鏡」も含まれていた。SNSで繋がらない友の展覧会を見に行く。作家とは案内状と年賀状のやりとりを30年近く続けている。長い時が経っていることを忘れ、魔法のような「幕間」が不思議と立ちあらわれた。時が設けた幕間で、続き友と心置きなく言葉を交わす。声の調子や言葉の意味は、二者が鏡となって互いを映し出す。言葉は呼吸を鏡に映していることだ。物語の続きで、鏡は友の息を映すことはなかった。
 
 日常は、簡単に癒すことのできぬ哀しみや可笑しみの連続である。物語=ナラティブを編み直すには、空になる時間が必要なのだ。展示前の空間、品物を取り出した後の箱、データを消した後のハードディスク。
 
 絵の具と像が剥がれた、プリント後のモノタイプの版。


 幕間からほんの少し飛び出した絵が、いたずらのように再会をもたらしてくれるように、鏡の前の絵にふうっと息を吹きかけてみようか。
 幕間では今も輩が何かを描いているような気がしてならない。
 
 人が鏡に姿をう映さいのならば、「幕間」から差し出される絵を鏡に映すことにした。
 
 
                       2024年1月19日 草稿3
©️松井智惠
※「幕間」についてのコメントはnoteに記載の以下のテキストを参照
https://note.com/boji_pika_poka_6/n/n7adebd1d2d95?magazine_key=me1d9be7ed5e0

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