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ため息、一つ。春

 もうすぐ三月が去ろうとしている。でもまだ明日は三月の空なのだよと、夕暮れ近くの光がそっと告げている。

 そろそろ桜の樹には初々しい緑の新芽があらわれて、花で重たくなった枝が生き生きとし始める。満開の桜の樹は妖気を吐いているようだった。
 うねる太い根の硬い樹皮を突き破ってもなお、花が咲く。そんな桜の様は、梅や桃のように春の訪れを告げる樹々とは異なる生き物のようだ。

 青空の下で満開の桜の樹にたたずめば、気持ちが何処かへ連れ去られてゆく。ぼってりと重い枝垂れ桜の古木などは、生き物の凄まじさをこちらに見せつけて、こちらの精気を吸うほどに攻撃的に感じる。
 雨模様の曇り空の下で、花びらがはらはらと落ちていく様に、私は一番親しみを持つことができる。そうして、ようやく桜の樹の近くまで近寄り、美しいものへ今年も一つため息を送ることができるのだ。

 三年前の今日は、どうだったのだろう。
もう、忘れてしまっているようなそれこそ桜の幻術にかかったかのような三年間。コロナ禍でも桜は変わらず咲き続け、ライトアップもお花見イベントもなかったはずだ。近くの公園や、ガラガラの列車の窓から見える風景の中で、桜は咲き誇っていた。

 外からの刺激や物量はほとんどなくなり、息を潜めて簡潔な暮らしを送ることだけが日常だった。掃除洗濯、日用品の買い物に炊事、今までの資料の整理、そしてその日の絵を描く。夕方には近くの寺の鐘を聴き、ニュースを見て不安ながらも、一日が無事にすぎたと納得して床に入る。今こうやって書くと、充分なたたずまいではなかったかとさえ思う。外からの情報や展覧会案内がない分、自分の中で足りないものを補うが如く何かしら描くことができたものだ。それくらい蟄居する期間が制作には必要な時がある。

 美術館も画廊も、映画館も、百貨店も全て食料品以外のものは、動きが止まってしまった世界では、ネットの話題も広がりがなく限られたものが続いた。外に出れば混雑や雑音のない空間が広がっていた時期は、アートに追われる夢から覚め、むしろ諦めのなかで輪郭がはっきりとした街で呼吸していたように思った。近くの街を散歩したいと思うほどの心地よさがあったのだから。そうか、大阪の風景は美しかったのだと、私はため息をついた。

 風景と光景の間に佇んで三年間が経つ。長年のテーマが現実となったまま、コロナはこれからも続くだろう。その間に多くの出来事が連鎖して起こって時間は着々と次の季節に向けて準備をしている。この三年間の間に身に染みた感情の起伏と平穏さのアンバランスな同期。少し振り返って経験したことが坩堝のどのあたりに溜まっているのか、ゆっくりと辿る時間が必要だ。夏になれば蟬の泣き声にかき消され、ため息はつかない。

©松井智惠             2023年3月30日 筆

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