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記憶

母方の祖母はそれはそれは優しい人だった。
初孫ということもあり私は大変甘やかされた。

幼少期の記憶を辿れば、怒られた記憶はほとんどなく、どこかに連れて行ってもらったり、何かを買い与えられたり、学校帰りにはおやつを作って待っていてくれたりと良い思い出しか残っていない。

時は流れて、私が大学生の時分に祖母は大病を患った。生活にこそ支障はないが、決して現代の医学では完治できないものだった。

何度か入院もした。私の帰省のタイミングが合えば、病院へお見舞いに足を運んだ。

大学を卒業する頃には、祖母はすっかり腰も曲がってしまいほとんど寝たきりの生活になっていた。それから数年の後に祖母は自らの希望で施設に入所することに決めた。

私が就職で上京した折には、祖母はよく電話を掛けてきては結婚はまだか、地元に帰って来ないのかと毎回しつこく繰り返すのであった。

その時の私は、東京での生活が出来上がっていたし、まだこちらでやりたいこともあったので、結構邪険に扱っていたと思う。

今思えば、祖母にとっての私の認識はまだ子供の頃のままだったのかなと思えなくもない。

そして、去年の秋口に祖母は亡くなった。

訃報の知らせのちょうど1ヶ月前くらいに祖母から電話があった。普段なら居留守を使い電話には出ないところだが、虫の知らせとでも言うのだろうか、何となく電話に出たいと思った。

内容はイマイチ覚えてはいないが、祖母は私の近況とか体調とかを知りたかったんだと思う。適当に話を合わせて会話を続けた。

若い頃の祖母は、保育園の園長先生をやったりもした。バリバリの働く主婦であった。その頃の姿は見る影もなく、久し振りに聞く祖母の話し方は "老人" のそれだった。私は軽くショックを受けた。

祖母は名残惜しそうにしていたが、時間は21時を過ぎていたため、体に障るからと言って私から電話を切った。

1ヶ月後、祖母は居室でひとりで亡くなったらしい。

コロナ禍真っ只中〜未だ警戒中ということもあり、施設への面会もほとんどなく、職員対応も最低限だったりしたのだろうかという想像をする。

おそらく祖母は寂しかったのだなと思う。

それでも、最後の最後に電話で話すことができたのは、私にとっては救いである。あれを無視していたらと思うとゾッとする。まあそれくらいではおばあちゃん孝行はできたとは言えないが。

葬儀の際、別れの挨拶の場面で遠縁の叔母が短歌を詠み上げていた。それは祖母の大変なお気に入りのものだったみたいだ。詳しく聞くと、どうやら祖母は短歌への造詣が深かったらしい。

私も数年前に現代短歌というものに出会い関心を持ち、関連書籍やSNSを見漁ることをしていた。

別れの挨拶の際に、さりげなくアドリブで短歌を詠むことが出来たなら良かったのだが、お生憎さまこう言ったことの類は遅筆であった。

一周忌は逃したので、お盆のタイミングでお墓に持って行ってもらおうと思い連作短歌の置き手紙をしたためた。

今年のお盆休みは短いので帰省できず、直接お墓まで持っていけないのが悔やまれる。

それよりも、生きているうちにこういうことをしていたのならば返歌をもらったり、祖母に教えを請うたり出来たのだろうか。そんなことを考えても仕方がないが。


連作 盂蘭盆会


気まぐれに 取った電話が 最後なり 
寂しき思い していたのか


色褪せて 紫陽花のはな 散るごとく  
あなたの記憶 遠くなりけり


思い出が   移ろう前に  会いに行く
亡き貴女との 温かい日々


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