感想:ドキュメンタリー『トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』 表現の影響、属性の先行とその打破

【製作:アメリカ合衆国 2020年公開 Netflixオリジナル作品】

110年余りのハリウッドの歴史の中で、トランスジェンダーがどのように描かれてきたかを追うドキュメンタリー。
映画やテレビでの表象の変遷や、トランスジェンダー俳優の起用にまつわる問題を、当事者であるトランスジェンダーの俳優・クリエイターへのインタビューを基に取り上げる。

人間が価値観を醸成する上で、映画やテレビ、書籍、インターネットなどを通じて提示される表現は重要な役割を持つ。
子ども向けの絵本やアニメーションの内容が道徳的な傾向にあるのは、受容者に社会の中で生きる上で必要とされる姿勢を教示するためだ。
年齢が上がると視野が広がり、情報の取捨選択や適切な判断が可能になるとみなされるため、成人をターゲットにつくられた作品で示される世界観や価値観には幅がある。
しかし、成人は表現に影響されないかといえば決してそうではない。
衣食住をはじめとしたライフスタイル、仕事や人間関係の捉え方、国家観など、あらゆる点において、人間は絶えず表現を受容し、それを現実の生活に反映している。
SNSや動画配信サービスの「自分の興味関心に合った情報が提示されるアルゴリズム」による陰謀論等の誘発が問題になるのも、人間の思想や価値観が触れてきた表現によってつくられるからだ。

本ドキュメンタリーでは、映画やテレビ番組が提示するトランスジェンダーのイメージがいかにステレオタイプを誘発し、現実のトランスジェンダーの人々へのまなざしを規定してきたかが示される。
モンタージュやクロースアップなどの技術を確立し、今日の映像制作の礎を築いたD・W・グリフィスは、人種差別主義者だった。「白人女性をレイプしようとする黒人男性」といったステレオタイプを提示する彼の偏見に満ちたまなざしは、異性装者にも向けられる。
グリフィスが手がけ、映像史において初めてカットバックが用いられた作品では、異性装者が滑稽でネガティブな意味合いを持つ人物として登場する。本作ではその人物が登場するシーンで映像がカットされることを取り上げ、「トランスジェンダーも同様に断片化された」と語られる。
その言葉通り、映像史においてトランスジェンダーは「人間」とみなされず、記号的に示され続けてきた。

サイレント映画において、異性装(特に"女性の姿をした男性")は、「わかりやすい面白さ」を表すものとして見世物のように扱われてきた。21世紀に至ってもコメディ番組では異性装の人物の言動に笑い声のSEを足し、それらを「滑稽で、笑われる対象であるもの」として規定していた。
ヒッチコックなどのサスペンス映画においては、猟奇殺人事件の犯人の男性が異性装を行う描写がみられる。ここで異性装は「別人格に同化しようとする試み」を示し、異常なこととして描かれる。
また、あからさまに嘲笑や罵倒の対象とならない場合でも、アフリカ系表象における「マジカル・ニグロ」のように、マジョリティにとって都合の良い人物として描かれる。
本作で取り上げられるのは、『ダラス・バイヤーズ・クラブ』において、トランスジェンダーの人物が人生に挫折した主人公の前に現れ、その経験や繊細な感覚によって彼を救い、主人公が前向きになると「用済み」とばかりに不幸に陥り、死に至るというものだ。(個人的には、『RENT』作中で命を落とすのがトランス女性のエンジェルであることもこの傾向に当てはまるのではないかと感じた。ダイバーシティを念頭に製作された同作においても、トランスジェンダーの人物が「天使」としてある種「神格化」されているのが、問題の深刻さを表していると思う)
医療ドラマやクライムサスペンスでトランスジェンダーが登場する際も、セックスワーカーとして殺人事件に関与するといった紋切り型の描写に終始する傾向にある。また、性転換手術を行った人物が転換前の性に特有とされる病気にかかる(トランス男性が乳がんになるなど)、ホルモン投与により生命を脅かされるといった「悲劇」も頻出する。
出生時の身体の性を変更することは「過剰な欲望」であり「冒涜」である、という価値観がここから窺える。(これはゲイ・レズビアンやフェミニストによるトランスジェンダー差別にも関係しているのではと思う)

米国民の80%にはトランスジェンダーの知人がいないとされ、彼らにとってはメディアによって示されるトランスジェンダー像のみが情報源となる。
差別的な表現は、現実に生きるトランスジェンダーの人々が「滑稽」あるいは「悲劇的」な存在とみなされる状況を誘発する。
また、当事者にとっては、表現を通して自らの存在が公然と否定されていることになる。当事者は、社会からの弾圧・偏見と併せ、心身ともに大きな苦痛を負う。

20世紀末頃からはトランスジェンダーを主要登場人物に据えた作品も制作されるが、ここでもシスジェンダー俳優がトランスジェンダー役を演じる状況が起こる。
本作では、これがトランスジェンダー俳優の雇用機会の剥奪であることに加え、作品のプロモーションや賞レースの場に現れるシスジェンダー俳優の身体がトランスジェンダーへのステレオタイプなイメージを再生産すること、「トランスジェンダー」という属性に演技の焦点が集約されてしまうことが問題点として挙げられる。
作中では女性の姿を巧みに演じていても、画面の外のシスジェンダー俳優は髭を生やし、スーツを着た男性(あるいはその逆)である。この構図は、トランスジェンダーとしての姿が「かりそめ」であり、「生まれたときの身体的な性が真の性」である、「本当の姿」は別にある、という考え方を強化するものだ(日本のテレビ番組でもトランス女性の出生名や低音の声、「男らしい」一面を面白おかしく見せようとする場面がみられる。「ありのままの姿」を二重化させるシスジェンダー俳優の起用は、こうした差別的なまなざしを助長しうる)
また、トランスジェンダーであることが人格のすべてを規定する訳ではない。現実の彼らはひとりひとりが仕事や趣味を持ち、生活する人間であるにも関わらず、フィクションの中では属性のもとに性格や役割が付随する傾向にある。シスジェンダー俳優がトランスジェンダーを演じる場合、必然的に「トランスジェンダーを演じること」そのものがクロースアップされるため、その傾向に拍車がかかるのだ。

また、トランスジェンダーの著名人が出演したインタビュー番組などの映像も、「属性が先行する」状況を示している。
性転換手術を受けた人物に対し、「性器/乳房を失う/得るとはどういうことか」という質問を投げかける例が非常に多くみられる。しかし、インタビュイーがシスジェンダーの場合、身体、それも最もプライベートな箇所にまつわる質問を当然のように投げかけることは明らかに礼節を欠いているし、ハラスメントであるといえる。
この姿勢がトランスジェンダーを前にすると希薄になるのは、トランスジェンダーが「人間」ではなくある種の「記号/モノ」とみなされていることの表れである。

トランスジェンダーを取り上げることは、「不遇な状況への共感を促す」ことも「マジョリティ属性の仲間に入れてあげる」ことでもない。
2010年代に入り、トランスジェンダー俳優がトランスジェンダーの役を演じ、一個人として何を考え、何を好むかを表象する作品が登場し始めた。
また、過去には差別的な言動を行っていたシスジェンダーのインタビュアーや司会者の中にも、当事者の声を聞いて姿勢を変える者が現れている。

トランスジェンダーを「人間」として表象する動きは起こっているものの、一部の著名人のみが脚光を浴び、現実社会には従来の法制度や価値観が残る状態では、そうでない多くのトランスジェンダーは憎悪の対象となり、生命と尊厳の危機に晒されたままである。
インタビューに回答するトランスジェンダーの俳優・制作者は、「表現そのものがゴールではなく、その先で現実の社会が変わることを求めている」と述べる。


私はシスジェンダーの観客として社会を構成するひとりである。このドキュメンタリーで取り上げられるようなトランスジェンダーへの差別的な表現も、過去には「そういうもの」として苦もなく受容していた。このドキュメンタリーで差別的な表現に晒される当事者の実体験として示されて初めて、どれほど残酷なことだったかを思い知る場面もあった。
本作では、マドンナをはじめとする現代のアーティストのスタイルが、ボールルームやドラァグ文化から引用したものであるとも述べられる。かつてアフリカ系の文化を白人が堂々と我が物にしていたように、トランスジェンダー文化が「シスジェンダーのもの」とされる構図がある。これについては、そういった作品を何も考えずに楽しんでいた身としては耳が痛く、正直なところ消化しきれない部分もあった。
自分がマジョリティであり加害者性を持つこと、既存の価値観の再生産に容易に加担しうることを忘れずに表現を受容し続ける必要があると痛感した。
勉強を続け、今後どのように表現が変わっていくのか、自分はそれにいかにコミットできるかを考えていきたい。

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