感想:映画『ビリーブ 未来への大逆転』 「彼女がスーパーウーマンだから」ではなく

【製作:アメリカ合衆国 2018年公開(日本公開:2019年】

2020年9月に逝去したアメリカ合衆国連邦最高判事、ルース・ベイダー・ギンズバーグのキャリアに題材を採った作品。
彼女が法科大学院を経てコロンビア大学教授となった後、弁護士として米国初の性差別を争点とした裁判に勝訴するまでを描く。

本作は2010年代の観客に向けて、「性差別をなくし、あらゆる人の平等を訴えることの重要性」というテーマを明確に持った作品である。
2017年から2018年にかけ、"#MeToo"や"Time's Up"といった性被害やその撲滅を訴える運動が起こり、女性への性差別への問題意識がより一層の広がりを見せた。
その状況の中で、現在に至るまでに、女性が権利を得るための闘いを続けてきた人々がいること、そして性差別は特定のジェンダーに限らずあらゆる人に関わることであると示すのが本作だ。

ルースが取り組んだ最初の性差別裁判は「独身男性には介護費用の税金控除が適用されないこと」の不当性を訴えるものである。
性別役割分担や家父長制に則った家族観、「男らしさ」「女らしさ」の価値観が、女性のみならず男性の選択肢も制限し、その自由を損なうことが、ルースの言葉や原告モリッツの姿を通して示される。
この裁判を題材に採った点に、性差別は普遍的な問題であるという制作側の姿勢が見て取れる。

この普遍性の重視は、ルース個人の能力を過度にクロースアップしない点にも表れる。
ルースは結婚・出産後の1956年にハーバード大学法科大学院に入学した。癌を患った1学年上の夫マーティンのためにふたり分の講義を受講、家では夫の介護と育児を行いながら首席の成績を修める。回復したマーティンの就職に伴ってコロンビア大学に転学後も、優秀な成績を維持する。
彼女は並外れたバイタリティと意思の強さ、優れた能力を持つ。冒頭の法科大学院入学式の映像では、「WASP系の、黒系のスーツを着た男性」が判で押したように流れる中で、ワンピース姿のルースが際立つ。ここでは彼女がどれほど革新的な存在であるかが強調される。
しかし、それほどの能力を持ちながら、「女性で、母親で、ユダヤ人」であるという理由で法律事務所に就職できないというシーン以降、ルース個人の能力にはあまり焦点が当たらなくなる(その分、結末で弁護士として頭角を表してからのルースの肉声のボイスオーバーと、颯爽と現れる現代のルース本人の映像にカタルシスがある)
この描写の変化は彼女が受ける抑圧の表れであることに加え、本作を「極めて優れたある女性」の物語ではなく、「すべての女性」にまつわる作品として演出する効果がある。
本編クライマックスの裁判では、法曹達が「普通女性は家庭にいるものであり、それが自然だ」と発言する。ルースのキャリアや環境は、こうしたステレオタイプを一蹴できるものだ。
しかし、彼女が目指すのは、条件に恵まれた者がさらに自らを傷めつけるほどの努力をして初めて認められたり、特別な扱いを受ける社会ではなく、どんな人間にも機会と権利が与えられ、自らの能力を発揮できる社会だ。それは彼女の裁判での陳述にも表れている。
また、本作ではルースのほかにも様々な女性が活躍する。コロンビア大学の学生達や、口述筆記を行う秘書は、ルースのもとで能力を発揮し、彼女をサポートする。これは環境が整うことの重要性を示す。ルースのゼミにはアフリカ系の学生も多く、人種的にも多様性のあるメンバーであることも、冒頭の画一的な人波と対比される。

本作では女性が女性として装い、活躍する様子も描かれる。鮮やかな色のワンピースを身にまとうルースをはじめ、女性法曹としての先駆者ケニヨンは初登場のショットで口紅をひいており、ルースの娘ジェーンもミニスカートを好んで穿く。前述の学生達もおしゃれだ。
「男性」に無理に馴染もうとするスタイルではなく、自分の好む、望む姿で邁進することを称揚する姿勢は、『キューティー・ブロンド』(こちらはフィクションだが)に通ずるものがあった。

また、法律ならびに法曹の恣意性や可塑性を示す作品でもあった。
法科大学院の学部長や、性質上権威主義な傾向のある税法専門の弁護士がコンサバティブであることに加え、明確にリベラルであるACLU(アメリカ自由人権協会)の弁護士でさえ男尊女卑的なまなざしを持つ。
法は絶対的なものではなく、社会の流れに合わせて変化していくべきだと訴えるルースは、世界を構成する前提とされる条件に対峙することになる。
ルースとジェーンがケニヨンを訪ねた後のシークエンスでは、ビキニ姿の女性が男性を膝枕する雑誌の看板が背景に映り込む。この雑誌が"cosmopolitan"(=世界市民)誌であることは、ルースが裁判に挑んだ時点での支配的な価値観がどのようなものであったかを象徴する。

作中で秘書が趣意書の"sex"を"gender"と修正する場面がある。「sex=生物学的性」と「gender=文化的・社会的に期待される性差」の概念が普及しておらず、「sexが人格や人生を規定する」という考えを法曹トップが自明のこととして語る時代に、固定観念に一石を投じることの困難さと大きな意義が本作では繰り返し説かれる。
デモ等の運動に熱心なジェーンが肯定的に描かれるのも、2010年代の社会を反映し、行動を後押しする側面があると感じた。

ルースとマーティンの互いをサポートする夫婦関係は非常に誠実なもので、ふたりの関係を示唆する左右対称の画面づくりも印象的だった。重々しく伝統的な家族制度の危機を語る法曹達のシーンの後に、マーティンが料理をするショットに始まる幸福な生活像が挟まれるのは爽やかな明るい皮肉で小気味良かった。

法学系の講義で、いわゆる「人権派」の弁護士は事務所が乱雑な傾向にあると聞いたことがあり、ACLUのメルの部屋がぐちゃぐちゃなのを見てなるほど…と思った。
伝統を擁護する立場の弁護士が過去の判例をコンピュータ処理するのに対してルース達は判例をひたすら読み漁るという構図があり、過去の記録に注意深くあたることの大切さにも触れられていたと感じる。

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