感想:映画『アデライン、100年目の恋』  女性が不老であるということ

【製作:アメリカ合衆国 2015年公開】

2015年のサンフランシスコ。資料館で働く29歳の女性、ジェニーには秘密があった。
実は彼女は1908年生まれで、本名をアデラインという。その身体は事故によって老化しなくなっているのだった。
同じ場所に住み続けることができないため、娘とは離れて暮らし、10年ごとに名前も職も変え、ともに暮らす伴侶のいない生活を60年以上も続けてきた。
慣例通り引越しの手続きを進めるジェニーに、資料館の理事であるエリスが声をかける。ふたりは意気投合し、恋愛関係になるのだが……。

29歳の姿のまま80年近く生きる不老の女性を通して、時が流れて人間が老いることを前向きに捉えた作品。
若く容姿の整った女性を主人公に据えることで、女性を取り巻くルッキズム・エイジズムへの言及がなされている。
また、主人公の記憶を担保するものとして、写真や映像、無機物に大きな役割が与えられていた。

不老不死の人間という題材はフィクションではしばしば登場するが、老いない、死なないという性質は同じでも、生きる時代や性別によってその道程は大きく変わってくると思われる。
いわゆる「結婚/出産適齢期」の女性の姿で1937年から2015年を生きることは、常に男性から欲望の対象としてまなざされるということである。
アデラインはそうしたまなざしを殊更に拒むことはなく、時代に合わせたファッションや化粧で美しく着飾る。エリスやその父であるウィリアムをはじめ、様々な男性と恋愛をしては離れていき、生涯をともにする伴侶がいないことに苦しむ。(この苦しみそのものが、パートナーを得ることを至上の喜びと規定する社会的規範に振り回されたものであるようにも思う)
一方で、アデラインは自分へのまなざしにバイアスが含まれていることにも気づいている。冒頭で身分証明書を偽造した青年が、彼女に対し「あと2歳はサバを読める」と言ったエイジズムの見える発言を黙殺したことや、エリスがクイズゲームの場で「女はボクシングに詳しくない」「女性チームのカラーはピンク」と口にしたことに対して苛立つような素振りを見せるのはその表れである。彼女はその後、その知識量で周囲を圧倒するが、ここにはエイジズムやルッキズム、女性への偏見への批判的な姿勢が窺える。
自分が女性であることを楽しみながらも、女性へのバイアスに違和感を覚える在り方は、現代の市井に生きる女性の現実的な感覚に沿ったものであると感じた。
アデラインは後述するように生まれた時期の映像や記録が残っている世代であり、娘も存命である。近親者がすべていなくなった後を生きる孤独とはまた別種の孤独があると思った、不老不死の女性が社会において味わう辛苦については、カレル・チャペック『マクロプロス事件』などでも感じたので、もっと様々な作品を鑑賞してみたい。

本作では写真と映像が重要な役割を持つ。
アデラインは1908年生まれで、当時の映像を収めたニュース映画を観ることを好む。
自分を撮影されることは拒むが、事故の前に撮影した写真は室内に飾って見返しており、何代も飼い続けている犬も撮影してアルバムとしている。(彼女がゼロックスの勃興時に同社に投資をした過去の回想シーンもあり、現実世界の複製・痕跡としての写真や印刷物の存在が強調される)
読書を好むこと、部屋の調度品にもこだわりを持っていることも含め、彼女は自分と同じく撮影された/つくられた時の時間を留め続けるものを見てはその記憶を蘇らせ、慰めとしているのである。
なお、写真などと同じく、彼女自身も人の記憶を呼び覚ます「無機物」として作用する。ウィリアムは妻キャシーとの結婚40周年の祝賀に現れたジェニーが、かつて自分の元を去ったアデラインと瓜二つであることに激しく動揺し、彼女への思慕を語る。ここで蘇った思い出はノスタルジーの範疇を出ず、たとえその時は唯一無二の女性であっても、40年苦楽をともにしたキャシーに勝るものはないと作中では語られる。
アデラインは時代ごとに装いを変えるため、常に同時代の若い女性の象徴のような姿をしている。アデラインと一時関わった人間がその時代を思い出す際の座標のような働きを果たしていた彼女が、自らを有機的な時の流れの中に置くことを再び認めるまでの物語といえる。

本作は機知を重視しており、音楽、映画、スポーツ、政治といった諸分野に造詣の深いアデラインと、文化を尊び寄付活動を行うエリスが惹かれ合うという筋立てなのだが、そのわりに彼女が不老になる仕組み(また、再び歳をとり始める仕組み)がかなりアバウトな「科学」によるものという印象を受けた。時間や人生観を問うのが主眼のこの映画においてそれほど重要なギミックではないのだが、自然科学に明るい人が観たらどう感じるのだろうとは思った。
また、2回の事故のきっかけとなるほか、ウィリアムとの出会いやドライブインシアターなど様々な形で登場する自動車は時代の象徴であり、いずれも彼女自身が加速・前進させている点も併せて、本作における時間や女性の位置づけと連動していた。(ドライブインシアターが静止して映像=流れる時間を鑑賞する装置であるのも示唆的であり、不老のアデラインそのものの反映であるのかもと思う)

アデラインの「最後の人」となるエリスが資料館の理事の立場を利用して彼女にデートを持ちかける言動は言語道断だと思うのだが、特に責められることなく話が進む。エリスに関しては上述したゲームでの発言も含め、この人とともに生きて大丈夫なのか? と思わせるところがあった。

上でも触れたが、各時代ごとのアデラインのスタイリングが印象的で、ウィリアムと恋愛関係にあった頃(1960年前後?)の服装は個人的に特に好きだった。不老であっても社会と関わり続け、流行のスタイルを身に纏う様子は興味深かった。「老けメイク」のようなこともしないため、自然に老いたいと願いつつも、その時代を生きる自分自身は楽しんでいるということかもしれず、アデラインのこうしたアンビバレントなところは面白いと思う。

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