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『君たちはどう生きるか』だけを観ても絶対に分からない、宮崎駿が本当に伝えたかったメッセージが深すぎた(ネタバレなしの徹底考察)

宮崎駿監督の最後の作品といわれている『君たちはどう生きるか』を観に行った。観終わった直後、一緒にいっていた友人と顔を見合わせて、「…終わったな」「なんか…全部、突っ込んでみたって感じやったな」と言葉少なに所感を伝えあった。映画館は、最後の最後までシーンとしていた。

実は、この映画に関して、宮崎駿監督自身が「おそらく訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました。」と言っていたらしい。 (以下の記事に書かれていた。)

そもそもの話、本であれ、歌詞であれ、映画であれ、それを作った人の真意を本当の意味で知ることなんて、できるはずがない。人は、たくさんの矛盾や葛藤を抱え、自分自身でもそれらを統合できないままに生きている。自分にすら「自分」という存在の全貌が分からないのに、そもそも外から「その人の表現」を見ただけの人に、その人がその「表現」に込めた真意が分かるはずがないのだ。

だから、私には「君たちはどう生きるか」の解説は書けない。私がここで書いていくのは、あくまでもこの映画を観て私自身が感じたこと、考えたことであり、私個人の解釈と辻褄合わせでしかない

それでも、今まで読ませていただいた他の人たちの解説とは違う切り口での考察となっていると思うので、ご興味のある方は、ぜひ最後まで読んでみて欲しいと思う。ちなみに、ネタバレはできるだけしないよう、すべてをボカして書いているので、わかりにくく感じるところもあるかもしれない。それはそれで、『君たちはどう生きるか』という映画にお似合いなんじゃないかと思う。


『君たちはどう生きるか』と『もののけ姫』

この映画を観て一番印象が強かったのは、今までのジブリ映画のシーンがいくつも出てきていたことにある。「あ、これハウルのあのシーンだ」「これはラピュタのあの場所」「ここ、ナウシカのあのシーンに似てる」そんな風に懐かしさのようなものさえ感じながら、観ていた。その中でも特に際立って踏襲され続けていたシーン・切り口・登場人物たちは「もののけ姫」のものだった。

そもそも最初に主人公を見たときから「これ、アシタカにめっちゃ似てるやん」と思った。目元や、ふとした表情が、だ。そして、主人公の周りにいるキーパーソンとなる人たちは、それぞれに「サン」だったり「じこ坊」だったり「おトキ」さん(私の友人は「エボシさま」だと思ったと言っていた)だったりしていた。似ているのだ。あまりにも。表情、描写、ふとしたセリフや笑い方など。

さらに、主人公が積み上げられた本を拾っていくシーンが出てくる。この映画のタイトルとも深く関わる一冊のキーとなる本を拾い上げるのだが、その本の上に乗っかっていた別の本には「黄金の雄鹿」(確か)と書かれていた。

いや、シシガミさまのことやん!

なぜ、色んな過去のジブリ映画の中でも、特に「もののけ姫」を踏襲していたのか。なぜ、主人公を含めたキーパーソンたちが、もののけ姫の登場人物たちに酷似していたのか。その謎については、もう少し後半で読み解いていく。パズルの全体像を説明する前には、ピースを全部、机の上に並べる必要があるのだ。


回収されなかった伏線と『君の名は。』との共通点

『君たちはどう生きるか』についての評価は、まっぷたつに割れているようだ。なぜなら、ストーリー展開はややこしく、なにがどうなっているのか分からないまま、視聴者は置いていかれないよう、引っ張りまわされるようにして、なんとかラストまで走り抜ける。そしてゴールを抜けたとき、肩で息をしながら今来た道を振りかえり「え?」となるのだ。

伏線は回収されず、謎は謎のままに残り、「私たちはなにを観せられたんだ…?」という疑問を持つ人が多いのも、分からないでもない。


たくさんある回収されなかった伏線や謎の中で、特に「え?あれ、なんやったん?」という部分には、いつも大きな巨石が登場しているという共通点があった。それは祭壇のように、3つの大きな石たちが組み立てられていた。1回目に「それ」を観たとき、私は新海誠監督の『君の名は。』を思い出していた。御神体が祀られているという、火山の噴火口のようなところにあった大岩を、だ。

他にも、新海誠監督の『君の名は。』を彷彿とさせるシーンがいくつかあった。私の友人は、それがハウルのシーンの踏襲だと受けとっていたそうなので、結局のところ宮崎駿監督の真意は分からない(当たり前だけれど)。

けれど、「そこ」の奥になにがあって、「あの人」がなにをして「よし、もう大丈夫」と言ったのか…

私には、「あの人」が鎮魂の祝詞を唱えているように見えた。なぜか、神道や封印された八百万の神々を感じとったのだ。そして、次に巨石が出てきたシーンも、神道的な要素があった。とらえようによっては、そこはまるで、生贄のための場所にも見えた。

これについても最後でまとめて解説するので、今しばらくお付き合いいただきたい。


謎に包まれた「あの人物」は結局何者だったのか

最後の最後まで謎に包まれていた「あの人物」は、結局何者で、なにをしていて、そしてなにを主人公に託そうとしたのだろうか?

できるだけネタバレをしないように書いていくが「積み木」というキーワードだけは使わせてほしい。そこを省いては、ここからの考察を語るのは少し難しいから。

「あの人物」は、普通の人間だったと思う。特殊な才能を持っていたわけではない。ただ、一般の人よりも "真理" に近い知識を習得していた。ただ、それだけだと思う。それは日本では呪術や呪法と言われるかもしれないし、西洋であれば錬金術といわれるような類の「学問」と「研究」のことだ。

「あの場所」は結局、どこだったのか。それは、「常世」ではないかと思う。言い換えれば、「狭間」だ。生命が生まれ、そして生命が還っていく「空」の世界が存在するという考え方は、いろんな世界の古い思想に見受けられる。そこでは、すべてが存在し、同時にすべては存在しないのだ。


「あの人物」は、その場所が持っているエネルギー的なものを利用して「争いや醜さのない、優しさと美しさだけに満ちあふれた完璧な世界」を創造しようとした。これだけ "真理" に近い知識を習得している自分、そして利己のためではなく利他の精神でやろうとしていることなのだから、自分には必ずできる。そんな想いがあったのではないだろうか。

だが、実際に始めてみると、うまくいかなかった。想定できないような出来事が五月雨式に出てきた。だから、辻褄を合わせるために、なんとか不調和な中で調和したバランスを取れるように、どんどん「積み木」を積み立てていくしかなかった。(これは、間接的に、死に際の「あのヒト」の言葉から読みとることができる)

「積み木」は、当初の予定とは違い、どんどん歪(いびつ)な形になっていき、とても不安定なバランスの上に成り立ってしまった。それを、今更「あの人物」はどうすることもできなかった。やり直すためには、すべてを壊して、ゼロからやり直さなければいけなかったのだ。

そして、それこそが、「あの人物」が主人公に託したかったことではないだろうか。すべて壊してゼロの状態に戻した「積み木」を、今度はまっすぐに積み立てていくように、と。まっすぐな「積み木」こそが、「争いや醜さのない、優しさと美しさだけに満ちあふれた完璧な世界」だったのかもしれない。そして、それは悪意を持たない、清らかな人物にしか託すことはできない、と。


「あの人物」と主人公との対話で宮崎駿監督が伝えたかったこと

「あの人物」と主人公の最後の対話は、宮崎駿監督からの「君たちはこれからどう生きていくのか」という問いかけの根幹に触れる、とても重要なシーンだったと思う。

宮崎駿監督が一番伝えたかったこと。
それは

人は、どんな崇高な人物に見えたとしても
内側に悪しき部分や葛藤や矛盾を抱えている

そして

人は、より高次のものを支配することは絶対にできない

というふたつのメッセージだったのではないだろうか。

つまり、

①人は絶対に純真無垢で完璧な存在にはなれない
(そもそも善と悪とをあわせもっているのが人としての自然な姿だから)
②完全なる純真無垢で完璧な存在でないものに、
 より高次のものをコントロールすることはできない
(ここで言う「高次なもの」とは、自然や、世界そのもののバランス)

ということではないだろうか。

その上で、今、地球温暖化や環境汚染、各国での戦争など、世界の終焉が叫ばれるこの世の中で、「君たちはどう生きるか」を宮崎駿は問うているのだ。そして、隠されたメッセージとして、彼自身が思う "答えのようなもの" のヒントを映画の中に散りばめている。

それこそが、「もののけ姫」とのリンクなのではないか。
私には、そんな風に思えてならないのだ。


「生きろ」から「どう生きるか」という問いへ

「もののけ姫」では、「生きろ」というのがとても強いメッセージとして描かれていた。アシタカはサンに「生きろ」と強く言う。

「もののけ姫」のメッセージは、ある意味わかりやすい。蝦夷(アイヌ)の元王子であったアシタカが、タタラバ(=近代化する社会)とシシガミの森(=太古から続く "神ながら" の生き方)の間に立って、近代化する社会と自然や神々との共存を模索している映画なのだ。

そして、「もののけ姫」の最後では、アシタカはタタラバで、サンは森で暮らすことを決める。縄文人の生き方を継ぐ蝦夷であるアシタカは、ある意味で「森と人との仲介者」として、あえて、タタラバという現代社会の中に身を置き、そこで古くからの生き方と近代化する社会との共存方法を探る道を選んだのだ。それが将来的にサンと対立する可能性があることも理解しながら。

「もののけ姫」は1997年に公開されている。26年前のことだ。それから、世界はどうなっていったのだろうか。

26年経っても、地球温暖化は止まることを知らず、後2〜3年以内にデッドラインが来る、なんて言われていたりもする。SDGsなんて言ってはいるけれど、実際のところ、その効果のほどはよく分からない。人々の心は荒む一方で、森や自然は荒らされ続けている。川は汚れ、人は大量のマイクロプラスチックを身体の中に入れ込み続けている。

自然との共存の道を、再び切り拓くことはできたか?

答えは、明らかにNOだろう。

だからこそ、宮崎駿監督は、26年経った今、「生きろ」から「君たちはどう生きるか」という問いかけへと、自身のメッセージを変化させたのではないか。

現代の若者に「生きろ」と言ったところで、「こんな時代に、指針となる大人もいない状態で、どうやって生きろっていうんだよ。正解なんて、わかんないよ」というのが一般的な反応だろう。だからこそ、「君たちはどう生きるか」という問いかけへと変えた。問われると、人は答えを出そうと考える。模索する。どうしたらいいだろうか。自分はどう生きたいんだろうか。どう生きていくことが、どのような未来に繋がっていくのだろうか、と。


宮崎駿監督が散りばめた「どう生きるか」のヒントたち


なぜ人は自己崩壊の道を止められないのか

なぜ、「もののけ姫」から26年、科学技術も地球温暖化や環境汚染への知識を増えたにも関わらず、人は自然との共存に至っていないのか。そのヒントは、『君たちはどう生きるか』の「あの人物」だ。

先ほども書いたが、

人は、どんな崇高な人物に見えたとしても
内側に悪しき部分や葛藤や矛盾を抱えている

そして

人は、より高次のものを支配することは絶対にできない


つまり、現代社会は地球や自然と "共存" しようと試みているわけではない。地球や自然を "支配"  "コントロール" しようとしているのだ。それは、まさに「あの人物」が完璧な世界を創ろうとしつつも、どんどん辻褄合わせのために「積み木」が歪(いびつ)な形になっていく姿に表されている。

「自然保護とか自然愛護とか、『自然を守ろう!』みたいなことを最近はみんな言ってるけどさ。

俺ら自身が自然の一部やん?
自然っていう大きな枠組みの中のひとつの生命でしかないやん?

やのに、なんで自然を自分から切り離して守る対象にしてんの?
その時点で、人間の驕りでしかないよな。

自然の一部でしかない人間が、『自然を守ってあげなければ』って、自然からしたらエゴでしかないと思うねん。そもそも、そういう意識とか驕りが、今の状態に繋がってると思うねん」

これは、以下の記事の中でも紹介した、私の友人の言葉だ。

結局のところ、そういうことなのだ。「守ろう」とすることも、「直そう」とすることも、"支配" であり、 "コントロール" なのだ。それが、どれだけ純粋な想いから出てきたものであったとしても。なぜなら、先ほども述べたように、本当の意味で純真無垢で完璧な人は、存在しないから。だから結局、「あの人物」のように辻褄合わせに必死になり、気づけば取り返しのつかないバランスまで追い詰められていく。

では、"共存" とはどういうことなのか?どうすれば、自然と共存した生活に戻っていけるのか?その答えは、回収されなかった伏線に込められたメッセージの中にあるような気がしている。


見えているものの「さらに奥」

自然を支配するのではなく、共存することが大切であるという考え方は、少しずつ世の中に浸透していっていると思う。それは「縄文人」や「アイヌ民族」などへの関心の高まりにも見受けられる。そして、それは「日本人」としての歴史を知ろうとする意欲の高まりにも見受けられる。

古事記や日本書紀をわかりやすく現代風に解説している本は、書店に増えている印象を受けるし、日本の神道系の神々への興味関心も高まっているように思う。(私の周りだけだろうか?)

でも。

本当の意味での「自然回帰」と「自然と共存した生き方」は、そのさらに奥にあるのだ。多分、はっきりと言うことはできないけれど、宮崎駿監督が間接的に伝えたかったのは、そういうことじゃないだろうか。それは、最近私自身が漠然と感じつつ、言葉にまとめるところまでは行きつかず、なんとなく自分の中に浮遊させていた考えでもある。

まだ私の中でも漠然とした "感覚" としてしかないものなので、うまく説明できるか分からないが、できる限りで言葉に落とし込んでみようと思う。


回収されなかった伏線の項で話した巨石と、「謎の存在」。あれはなんだったのか、なぜ、あの描写が必要だったのか。あれらの場面で出てきた巨石たちが新海誠監督の『君の名は。』に出てきていた巨石と似ているということを指摘した。そして、新海誠監督の『君の名は。』以降の映画には、一貫して神道の要素が色濃く表されている。

しかし、宮崎駿監督は、その「神道」のさらに奥にこそ、本当の意味での「自然回帰」と「自然と共存した生き方」があるのだということを伝えたくて、あのシーンを入れ込んだのではないだろうか。


神とはなにか

私の生まれ育った京都は、呪術によって作られた古都だ。

北に玄武、東に青龍、西に白虎、そして南に朱雀という四神相応の地である。それぞれに船岡山や鴨川、西大路や池/平野がある。
京都の中心を北から南へと突き抜ける烏丸通に立つ京都駅は、北側にも南側にも壁がない、トンネルのような形をしている。台風の日には雨が降り注ぐし、大雪の日には京都駅内を雪が舞い散る。

なぜ、そんな風に作ったのか。それは、烏丸通りを通る「気」が京都駅で止まってしまうと、都のエネルギーの滞りができてしまうからだと、どこかで耳にしたことがある。
京都の鬼門にあたる東北線上には、都を守るための様々な神社仏閣が経っている。比叡山などがその代表格だ。


そんな場所で育ったからこそ、わかることがある。それは、神道系の「神」は、人間との境界線がとても薄いということだ。例えば、学問の神様として知られる北野天満宮は、菅原道真という実在の人物を主祭神として祀っている。祀っているというのは言い方であって、実際には菅原道真の怨念を封じ込めるため、鎮魂として神格化し、神社を建てたのだ。京都には、そういった「怨念を封印するため」の神社が数多く存在する。崇道神社などは有名だ。

つまり、人間でも都合によって神になるのだ。

しかし、古事記などに登場する神々が、実際には人間なのかどうかは、ここではあまり重要ではない(かもしれない。私もまだよく分からない)


『君たちはどう生きるか』において登場する巨石の中には、ナニカがいた。そのナニカがなんなのかは分からないが、美しい綺麗なものというよりは、おどろおどろしいナニカだった。二度目に巨石が登場したシーンでも、優しさや温もりというよりも、呪いや呪縛的な印象を強く受ける映像となっていた。


『もののけ姫』における「神」

「もののけ姫」における「神」とは、明らかに神道の神々ではない。人間ではなく、山犬やイノシシ、鹿などの動物だ。しかし、これらの動物はあくまでもメタファーであって、本来は「自然そのもの」を指している。

つまり、古来においての「神」とは、名前やカタチがある "誰か" ではなく、自然そのものであったのだ。例えば山神、海神、そして太陽や風、雨、雷。そのすべてが "自然" であり、そこには生命の営みが存在している。

大きな生命の輪。地球という生命体の中に存在するすべてのモノは、絶妙なバランスの上に成り立ち、お互いを補完しあいながら、調和の中で生きていた。ここでいう「調和」とは、「完璧」とイコールではない。

例えば、台風がくれば山の木々は切り裂かれ、倒れる。地震がくれば、山は崩れ、津波が海沿いを一掃する。それは『君たちはどう生きるか』に登場した「あの人物」が目指した「完璧な世界」とは程遠いのかもしれない。でも、それは「自然な姿」であり、そのリズムの中で生きることこそが、本当の意味での「自然回帰」であり、「自然と共存して生きる」ということなのではないだろうか。


「支配をするな、支配されないために」

最近読み終わった『水の精霊』という本がある。横山充男という方が書かれた4部作からなる物語だ。(読み終わった直後に、ありのままに書いた記事。今後、追記・修正していくつもりだ)

その中で、主人公の真人が

支配するな。支配されないために。
殺すな。殺されないために。

という言葉を発する場面がある。

ひとはひとを支配してはならない。ひとはまた自然をも支配してはならない。たとえそれが神という名であろうとも、人や自然を支配してはならないのだ。真人がこれまで体験してきた自然の靈氣を、あるいはその総体を神霊と呼ぶとすれば、支配というものからもっとも遠い存在であった。神霊は、何者をもけっして支配はしない。つねに開かれつづけるものであり、清らかで美しい。明るくすこやかで、しかも荘厳ともいえる大きさを備えていた。

水の精霊Ⅳ  p.307

結局、本当にシンプルにまとめてしまえば、『もののけ姫」』においても『君たちはどう生きるか』においても、宮崎駿監督が伝えたかったメッセージとは「支配しようとするな」ということなのだ。

『水の精霊』の2巻の後書きにおいて、筆者は以下のような言葉を書いている。

本来のそうした儀式や修練がいいかどうかはべつとして、すくなくとも昔の若者たちは、どうすれば成人になれるかを具体的に目標として持っていた。しかし現代の若者たちは、真に成人になろうとするならば、自分たちで基準をもうけたり修練の方法をつくりだしたりするしかない。さらにやっかいなのは、若者たちの目に映っているおとなたちは、年齢的にはおとなであっても、尊敬すべき成人としては映っていない。つまり、現代のおとなたちも、真に成人するための儀式や修練をおさめていないのだ。[中略]

真人とみずきが歩いている道は、だれかが敷いてくれた道ではない。古い道が消滅してしまった以上、自分たちで踏みしめ切り開いていくしかないのである。

『水の精霊 第Ⅱ部 赤光』横山充男 p.469-p.470

これこそが、宮崎駿監督が「君たちはどう生きるか」と私たちに問いかけた理由ではないだろうか。すでに述べたように、ただ「生きろ」と言われても、どうやって生きていけばいいのか教えてくれる人は、もうほとんどいないのだ。だから、『水の精霊』で書かれている言葉同様、「どう生きるか」は自分たち自身で模索していくしかない。

それでも、自分にできる限りのメッセージやヒント、自分なりの「想い」や「答え」は、伝えておきたい。どれだけまとまりがなく、取り止めのないものとなったとしても。

宮崎駿監督の、そんな切実な想いで創られたのが、今回の『君たちはどう生きるか』という作品だったのかもしれない。そして、そのメッセージを受け取った私たちは「支配」せずに自然と「共存」していく道を、『もののけ姫』のアシタカのように、模索してかなければならないのだ。

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