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ボランティアが善なのか悩んでる方へ@2022/1/27

どうも、おっさんです。

これは、20年前の自分ともし会ったらしゃべりたい内容です。


善とは何か?

まず、善とは何なのか?ですが、これがまず難しいですよね。

これだけでも語り尽くせないものがあると思うのですが、でも、簡単な所から考えてみます。簡単に言うと、相手にとって利益になることです。いや、でも、これだけだと、暴力団を助けることも、暴力団にとっては善になってしまいます。

暴力団は極端なので、国で考えてみましょうか。日本にとってメリットになることをすることは善なのか?多くの日本人にとっては善であると言っていいのですが、お隣の国から見たらどうでしょうか?日本しか持ってない資源を、数が少なくなったからという理由で、日本の外へ出さないようにしたとして、でも、お隣の国はそれが欲しい場合、どうでしょうか?お隣の国にとっては悪です。

というわけで、善悪というのは、どこまでを範囲とするかで違ってくるということですね。

じゃあ、全人類を範囲としたら、それで終わりかというと、次は人間以外の動物をいくら殺してもいいのか?ということにもなります。

結局の所、自分だけでなく、自分が属する集団の利益をはかり、それを大きく害さない範囲でなるべく、その外側のより包括的な集団の利益をも測る、というのが善なのかな、と考えてみることにします。突き詰めるとまだまだ色々あるとは思いますが、「現実の壁」でぶちっと切りました。

善は無償なのか?

足が不自由なお年寄りに席をゆずってあげると、後で政府から100円もらえるとします。その条件で譲ってあげました。これは善でしょうか?おそらく、これが善だと言う人は多くはない気はします。確かにお年寄りにとってのメリットにはなっていますが、お金っていう明確な対価があると、善というより業務のような感じがします。

では、100円ではないけど、後で政府からまれに表彰状がもらえるとしたら、どうでしょうか?今度はお金ではないですが、一応、確実ではないものの、対価がもらえます。おそらく、この程度であれば、善だという人が一気に増えるのではないでしょうか。ただ、このケースの時点で既に善ではない、と言う人もいます。何らの対価もあてにすることなく、一方的に与えるのが善だというのです。しかし、果たしてそんなことが可能でしょうか?

やはり、何も得ていないように見えるケースでも、何かを得ている、というのが実際の所ではないかと思います。たとえば、ボランティアで炊き出しの手伝いに行ったとして、交通費も時給ももらえないとしても、「自分は善行を積んだ」という自己肯定感を得られていると思うんですよね。そのために、行っていると思うんです。結局、対価が見えやすいかどうかの違いがあるだけに過ぎない、ということです。

特に大学生や高校生でボランティアやってる人たちって、後で進学や就職の時に実績として書類に書けるからやってるって人はぶっちゃけ多いと思います。まぁ、でも、それで助かる人たちが居るならいいんじゃない?世の中がよりよく回るのであればそれで良い。無償なのかどうかって小難しく考える必要はない。役立ってるかどうか、具体的に考えればいいじゃない?

無償である必要はない

私としては、ぶっちゃけ、政府が100円払うケースもアリだと思います。それを善とは呼べないかもしれないけど、それで社会がよりよく回るのであれば、それも良いと思います。必ずしも無償でないといけないということもないのです。むしろ、個々人が利己的に振る舞おうとするエネルギーを、そのまま直接、社会をうまく回すエネルギーに変換できる社会のほうが、持続可能な社会であるとすら思っています。

結論

ボランティアをやりたい人はやれば良い。面倒ならやらなくて良い。以上。


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