月の砂漠のかぐや姫 第17話
羽が出した合図は、「駆けだせ」の合図ではなく、「できるだけ速く歩け」の合図でした。
ここまでバダインジャラン砂漠を歩いてきた羽には、砂漠には平らなところがほとんどないことが、身に染みてよくわかっていました。
砂漠では常に強い風が吹いている上に、その風向きは一定ではありません。また、足元の砂は水のように滑らかで、風の力によって風紋と呼ばれる形を浮き上がらせるほどです。
これらの条件が合わさった結果、砂漠は大小の砂丘が複雑に入り組んだ地形となっているのです。そのようなところで駱駝を走らせてしまうと、その背に乗っている人は姿勢の変化にとてもついていけなくなり、落下してしまう恐れさえあるのでした。
ザクザクザク。
駱駝は力強く砂を蹴って進みます。
背中に吹き付ける風は、どんどんと強くなってきています。首筋に当たる砂粒は、肌を傷つけるほどの勢いになってきました。
それでも、焦りを懸命に押し殺しながら、羽は駱駝を歩かせました。
「もっと速く移動したい」
もちろん、砂漠を自分で歩くよりは、はるかに速いのです。
「でも、もっと速く」
心の中で、焦りばかりが大きくなっていきます。
ザクザクザク。
首筋に当たる砂の痛みが、耐えられないほどになってきました。顔を覆っていた頭布を、首筋を守るようにずらします。後ろについてきている輝夜姫を見ると、長い髪が後ろから吹く風に煽られて、顔の横で舞っています。
二人は少しでも風から身を隠せるように、できるだけ姿勢を低くして駱駝にしがみつきます。
「速く、速く」
ザクザクザクザク。
どこまで大砂嵐から逃げれば助かるのかはわかりません。できればゴビの台地まで逃げたい。そうすれば、どこかに地形の変化を見つけて、隠れることができるかもしれません。でも。
ゴウッ。
強い風の拳が、二人の身体を打ちました。
もう羽には後ろを見る余裕はありません。でも、風が強くなってきている、大砂嵐が近くなってきていることは、感じたくなくても感じ取れてしまいます。
羽は自分の駱駝の進むペースを落として、輝夜姫の駱駝の横に並びました。駱駝の上はひどく揺れるので、口を開くと舌を噛みそうになりますが、どうしても輝夜姫を気遣う言葉が口から出てしまいます。
「輝夜、大丈夫か」
輝夜姫は、羽に比べて駱駝に乗ることに慣れていませんし、そもそも、通常は、ここまでの速さで駱駝を歩かせることもありません。そのため、ただ駱駝にしがみついているのに精一杯で、羽に言葉を返すことはできませんでした。それでも、何とか羽の方を向き、「大丈夫だよ」というように頷くのでした。
バチバチバチッと音を立てて、背中に砂が突き立ってきました。羽は反射的に後ろを振り返りました。
そこには、濃淡を常に変化させる大砂嵐の黒い壁が、その果てが見えないほど、空高くそびえていました。
もう、二人のすぐ後ろまで、大砂嵐が迫っているのです。
「このままじゃ、だめだ。走るぞ!」
羽は決断を下しました。いや、考えることはできませんでした。「あの得体の知れない黒いものに、飲み込まれたくない」そんな生き物としての本能的な思いが、羽に駱駝を走らせたのでした。
「うん、わっ」
輝夜姫には後ろを振り向く余裕はありません。羽の駱駝が速度を上げたのに連れて自分の駱駝が速度を上げるのに、なんとか対応しようとするのに精一杯でした。
グワン、グワッ、グワン、グワッ。
走り出した駱駝は、砂上をどんどんと進んでいきます。
それでも。
「ああっ」
突然、二人は深い闇に包まれました。
とうとう、大砂嵐に追いつかれてしまったのです。
月の光も星の光も、大砂嵐の内部には届きません。もう二人には、前も後ろも右も左も全く分かりません。それどころか、自分の乗っている駱駝の頭さえ見えないような状態です。
ただただ、真っ暗。
そして。
ドウンッ。ドンダンッ。
二頭の駱駝は相次いで倒れました。いくら砂漠に慣れている駱駝とはいえ、この暗闇の中で不規則に変化する砂地の上を走り続けることは出来なかったのです。
唐突に身体を支えるものがなくなった羽は、反射的に体を丸めました。上下の感覚もつかめないまま空中に投げ出されますが、勢いには逆らいません。
ズンッと背中に大きな衝撃があり、地面に叩きつけられたことがわかりましたが、そのまま、砂地を転がっていくことで衝撃を逃がしました。
身の軽さから「羽」と呼ばれる少年は、不意に駱駝から落とされたにもかかわらず、何事もなかったかのように立ち上がりました。羽は、身を丸くして勢いに逆らわず転がることで、無意識の内に落下の衝撃を逃がしたのでした。
「輝夜、どこだ!」
吹き荒れる砂嵐のため視界が全くない中で、羽は叫びました。確かに、自分の後ろでも、駱駝が倒れた音がしました。輝夜姫は無事なのでしょうか。
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