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月の砂漠のかぐや姫 第77話

「せめて、これだけは許してください」

 話はもう終わったとばかりに自分の馬に戻ろうとする寒山に断ってから、王柔は自分の腰紐に結び付けていた水袋を手に取ると、それを少女に握らせました。
 交易隊の先頭まで戻れば、自分の荷物を載せている駱駝もいますから、もっとできることがあるのかもしれませんが、おそらくそれは、これ以上の遅滞を嫌う寒山が許さないでしょう。今の自分ができる精一杯のこと、それが、この水袋を手渡すことだったのでした。

「いいか、理亜。何とか頑張るんだ。少し休んで、病気の症状が落ち着いたら、土光村まで来るんだ。そこには王花(オウカ)さんがいる。わかるか、王花さんだ。僕たちの母親のような人だ。きっと理亜の力になってくれる。理亜の母さんにもなってくれる。だから、だから・・・・・・」
「土光、村・・・・・・。王花サン・・・・・。おかあ、サン?」

 理亜の疲れ切った顔に、わずかながら希望の光が宿ったように見えたのは、王柔の思い込みだけだったのでしょうか。それとも、「お母さん」という響きが、彼女に力を与えたのでしょうか。王柔には、少しだけれど、彼女の身体に力が戻ったように感じられました。
 王柔は水袋を握る少女の手に自分の手を重ね、彼女の励ましになる言葉を繰り返しました。

「そうだ、そうだよ、王花さんだ、王花さんは、理亜のお母さんになってくれる人だよ。ごめんな、僕は行かなくてはいけない、ごめんな・・・・・・。きっと、きっと、土光村まで来るんだよ、いいかい・・・・・・」
「こら、案内人、くどいぞっ」

 馬上に戻った寒山から、王柔に向けて鋭い声が投げつけられました。このまま放っておくと、王柔はいつまででも彼女に話を続けそうでした。
 びくっと身体を震わせて、その言葉を背中で受け止めた王柔は、ゆっくりと立ち上がりました。

「オージュ?」

 少女は、自分の手を離して立ち上がった王柔の顔を、不思議そうに見上げました。

「ごめんっ。待ってるからっ」

 これ以上その少女の視線を受け続けることは、王柔には耐えられませんでした。
 彼は大きく一声あげると、ばっと振り返って、交易隊の先頭に向って走り出しました。
 王柔にだって判っているのでした。
 ゴビや砂漠において、水は命をつなぐ極めて大事なものです。仮に彼女が病気になっていなかったとしても、自分が渡した水袋の水だけでは、このヤルダンを抜けて土光村まで歩くには、到底足りないのです。自分がここに彼女を置いていくということは、彼女の命がここで尽きるということに、直接繋がるのです。
 でも、王柔にはどうすることもできないのでした。このまま、寒山にお願い事を繰り返しても、それが聞き入られるどころか、寒山自らが彼女を殺してしまうことに、つながってしまいそうでした。
 今の自分にできる精一杯のことは、自分の命を支える大事な水を彼女に与える事、たとえそれが単なる自己満足にすぎないとしても、それしかないのでした。

「それしかない? どうだろうか・・・・・・。本当に、それしかないのだろうか・・・・・・」

 そう思っていたとしても、心の中で自分を責める声が大きくなることを、王柔は止めることが出来ませんでした。彼女の無垢な視線が自分を責めているようにさえ思えてしまいました。そのため、彼は走りだしたのでした。少しでも早く、その場所から離れるために。自分を襲ってくる罪悪感から、逃げ出すために・・・・・・。
 王柔が走り去ったのを確認すると、寒山は周囲の交易隊員に次々と指示を出し、行進を再開させる準備を整えさせました。少女の一件で列が大きく乱れてしまっていて、先頭の方にいるはずの者までが、何事が起きているのか自分の目で確認しようと、最後尾まで下がってきている始末でした。
 少女と同じ連につながっていた奴隷たちや、世話をしていた交易隊員も、この場に残される彼女の方を、ちらちらと振り返りながら、急かされるまま列を整え始めました。
 寒山にとって、奴隷の少女は既に切り捨てたものでしたから、彼が後ろを振り向くことはありませんでした。彼に取っての関心事は、自分の交易隊と荷についての事だけだといっても、あながち間違いではないのでした。
 寒山は空を仰いで、太陽の位置を確認しました。まだ急げば、今日の内にヤルダンを抜けることが出来るかもしれません。

「遅れた分を取り戻すぞ! さぁ、歩け!」

 交易隊の中心で彼が上げた声は、冬空に轟く雷鳴のように、再び長い列となった交易隊全体に響き渡りました。
 先頭に戻ってきた王柔の背中を、雨積(ウセキ)が軽く叩きました。雨積にも王柔の気持ちが、幾分かは理解できたのでした。ただ、厳しいように見える寒山の差配が、交易隊の隊長としては正しい行いであることも、雨積には理解できていました。
 その両方の気持ちが、泣きそうな顔をしながら、精一杯努力して自分の感情を押し殺そうとしている王柔の背中を叩く、その行為に現れていたのでした。



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