月の砂漠のかぐや姫 第58話
「なるほど。留学の方でしたか。申し遅れました、私は、交易隊の護衛隊の頭で冒頓(ボクトツ)と呼ばれるもの。これらは私の部下のものたちです。しかし、その留学の証ですが‥‥‥。失礼ですが、それを確かめさせていただくことは、できるのでしょうか」
留学の徒は、各部族の指導者の卵と認められた若者です。冒頓と名乗った男の口調は、自然に改まったものに変わりました。しかし、冒頓は、どこかこのような事態を楽しんでいるかの様子でもあり、素直に羽磋を留学生と認めようとはしませんでした。
連絡手段の乏しいこの時代では、自分の名前を彫り付けることで、印章やサインの代わりとしていました。この留学の証も、木札に玉を埋め込んだ立派なもので、裏面には貴霜族の族長自らが名を刻んで証としているものでした。
万が一このような大事な証を偽造などした者があれば、その者は命を持って償わなければいけないのは、当然の事です。冒頓は、その証に彫り着けてある名を確認したい、と言っているのでした。
後になって思えば、交易隊を護衛する立場にある男として、冒頓の言いようは、もっともなことでした。ここは「ああ、わかりました」といって、その証を冒頓に渡しても良かったのかも知れません。
しかし、その時の羽磋は「自分が試されている」と感じたのでした。交易隊に合流するために馬を駆けさせている間ずっと、「輝夜を助ける」、「俺が輝夜を助ける」と繰り返していたので、「強くありたい」という思いが、彼の心の中で大きくなり過ぎていたのかも知れません。あるいは、成人した男として初めて臨む場で、自分を大きく見せたいという思いが、知らず知らずの内に、彼の心の中に生まれていたのかも知れません。
「証はここに。小野殿にお目通りを願いたい。小野殿に検分していただきたい」
羽磋は、冒頓の目を正面から見据え、大きな声ではっきりと答えました。その意味するところは「自分の相手は、お前ではない。交易隊の長だ」というものでした。
一気に、空気がピンと張りつめました。
先程までは全く感じていなかった風の流れを、二人を取り囲んでいる護衛隊の男たちは、頬に感じました。
「へぇ‥‥‥」
きらきらと輝くまぶしいものを見るかのように、長く伸びた前髪の下で、冒頓の目が細められました。目には見えない猛烈な圧力が男の身体から発せられ、「バンッ」と羽磋に叩きつけられました。それは、数えきれない修羅場をくぐってきた男だけが持ち得る圧力でした。
そのような圧力を自分で操ることが出来ずに、常に周りに発している、抜身の刀のような強者はしばしばみられます。しかし、この男のように、その圧力を自分で自在に操り、日頃はそれを完全に隠していられる者はいくらもおりません。
細められた目の奥に潜むその瞳は、どれだけの闇を見てきたのでしょうか。「強い」、その一言だけで片付けることのできない「恐ろしさ」が、その圧力の中には含まれていました。
周囲の男たちは、その圧力の中心である冒頓と羽磋から、目を離すことができなくなっていました。
優秀な若者、遊牧に関しては一人前と、遊牧隊では目されていた羽磋であっても、この男の前では、膝を地につかない様に耐えているだけで精一杯でした。ただ、それでも、羽磋は、男の目を正面から捉え続けていました。
「引かない。絶対に引かない」という強い思いが、彼の頭の先から足元を通り、ゴビの台地に突き刺さって彼を支えていたのでした。
今の彼に取っては、自分を動かしている想いはすべて「輝夜を救いたい」というところに繋がっていて、だからこそ、自分の想いを変えたり、一歩引いたりすることなど、たとえ身体が吹き跳んでしまったとしても、できないことなのでした。
その時、二人を取り巻く護衛隊の男たちの間から、彼等の肩ほどの背丈しかない小柄な男が、揉み手をしながらするりと抜け出てきました。
年のころは三十代の前半というところでしょうか。頭には白い布を巻き付けています。この小男は、鳥さえもさえずることを遠慮するような緊迫した空気をものともせずに二人に近づくと、甲高いゆっくりとした口調で話しかけました。
「まぁまぁ、お二人とも、肩の力を抜いてください。羽磋殿、お待ちしておりました。話は伺っておりますよ。私が小野です」
小野の声には、緊迫した空気を解きほぐす力がありました。羽磋の身体は、ふっと軽くなったようでしたし、周囲の男たちも、どこか安心したように、緊張で凝り固まった腕や肩を回していました。
「小野殿、は、初めてお目にかかります、私は・・・・・・」
「羽磋殿、羽磋殿、大丈夫ですよ。お話はお父上から聞いております。無事に合流できて何よりでした。どうぞ、野営地の中へお入りください。お話はそれからということで」
慌てて自己紹介を始めようとする羽磋を軽く制すると、小野は羽磋を野営の準備をしている交易隊の中へと誘いました。
小野の横には、「やっぱりな」というような苦笑いを浮かべた超克が立っていました。
冒頓が交易隊に向ってくる騎馬を認めて、「ちょっとからかってくる」と馬を進めたときに、超克は小野に連絡を取りに走っていたのでした。
冒頓はちょうど超克の息子のような年ごろです。冒頓が成長する過程で、それを支えてきたのはこの超克でした。それゆえに、この若者が、人好きのする気の良い一面と、気分屋で思い込んだら突き進む頑固な一面を併せ持っていることを、彼はよく知っていたのでした。
冒頓という呼び名は、「にわかなこと。むやみに突き進む。押し切って進める」という意味がありました。その呼び名の通り、冒頓の「ちょっとしたからかい」が、彼の気に障ることがあって、急に「ひどいもめごと」に発展したことが何度もありました。
それを経験していた彼は、念のために、周知されていた若者が近くまで来ていることを小野に伝えて、迎えに出るように場を整えたのでした。
気勢を制された羽磋は、小野に大人しく従って、愛馬を引きながら野営地の方へ歩き出しました。
先程まで緊迫したやり取りをしていた護衛隊の長の横を通り抜ける際に、緊張しながら彼の顔を見上げると、冒頓は人懐っこい笑顔を作り片目をつぶって見せました。もちろん、そこには、先程あったような圧力はまったくありませんでした。
予想外の彼の行動にびっくりした羽磋は、どのような返事を返していいか戸惑いましたが、「引けない」という意識が残っていたのか、とっさに彼と同じことをして返そうとしました。
でも、そこはまだまだ余裕のない少年のことです。冒頓を見上げながら横を通り過ぎた羽磋の顔は、片目ではなく両眼ともが閉じられていました。
もちろん、羽磋には自分がどのような顔をしたのかわかりません。ですから、自分が小野と共に交易隊の野営地の中へ入っていったあとに、護衛隊の集団から沸き上がった明るい笑い声が一体何なのか、彼にはさっぱりわからないのでした。
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