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月の砂漠のかぐや姫 第33話

「くそ、くそっ」

 羽は、小さな声で罵りながら、小走りで自分の天幕に戻っていきました。
 そもそも自分は誰に対して憤っているのか。竹姫に対してなのか、それとも他の誰かに対してなのか。
 極度の興奮で混乱している羽には、それすらもわからなくなっていました。
 考えてみると、大事なことを忘れてしまった竹姫に対しての怒りがありますが、それ以上に、感情的になってしまって竹姫を傷つけるための言葉を発してしまった、自分自身に対しての憤りもある気がします。
 でも、羽には、それだけではないようにも思えるのでした。それ以外の、何だか良くわからない、どこにぶつけていいのかもわからない、重くて黒い塊が心の中に存在していて、それを少しでも小さくするために罵りの言葉で外に排出しているというのが、今の自分の感情を表すのに一番適当なものに思えました。

「くそ、どうして、どうしてなんだよ。どうして忘れてしまえるんだよっ」

 少しずつ羽の言葉は、具体的なものに変わってきました。
 また、彼の足取りもゆっくりしたものに変わってきました。
 胸の中の黒い塊が少しづつ薄れてきて、自分が何に怒っているのか、どうして悲しく思っているのかが、おぼろげながら見えてきたようでした。
 それと同時に、自分が竹姫を深く傷つけてしまったであろうことにも、羽は意識を向けられるようになってきました。
 あの時に自分は何を言ってしまったのか。「竹姫」、その言葉だけは、今まで口にしなかったのではないか。それを自分が口にした時に彼女がどれだけ傷つくのかを、自分は知っていたはずではないか。
 羽が自分の天幕の前に戻ってきたときには、彼の肩は落ち背は丸められ、先程までの怒りに震えている少年から、大変なことをしてしまって後悔している少年へと、すっかりと様子が変わってしまっていました。

「おお、羽、目を覚ましていたのか。よかった。心配していたぞ。どうだ、身体の調子は」

 大きな声で羽に呼び掛けるものがありました。羽が暗い顔をして自分の天幕に入ろうとしたときに、大伴から声をかけられたのでした。その声は、自分の息子が長い眠りから覚めたことへの喜びが込められているようで、とても朗らかなものでした。
 正直に言うと、羽は、今は誰とも会いたくはありませんでした。
 しかし、有隣の話を思い返すと、羽と竹姫は大伴に助けられたようです。それに、羽は逃げだした駱駝を回収したことの報告を、まだ行っていないことに気が付きました。
 羽は落ち込んでいる自分を励ますように、丸めていた背をすっと伸ばすと、大伴の声がした方に振り返りました。

「すみません、父上。ご心配をおかけしました。母上から聞きました。砂漠で父上に助けられたそうですね、申し訳ありませんでした。逃げた駱駝は無事に捕まえたのですが、ハブブに巻き込まれてしまって身動きが取れませんでした」

 自分の仕事を最後までやり通せなかった悔しさをにじませる息子の肩を、大伴は片手で抱き寄せました。

「まあ、お前たちが無事ならそれでいいさ。ハブブに見舞われれば、俺たち大人でもどうしようもない。こちらからでも砂嵐が立ったのが見えたので、心配になって後を追ったのだがな、上手くお前たちを見つけられてよかった」
「いえ、父上のお言葉を守れば竹にもあんな・・・・・・ん?」
「それよりもな」

 自分の言葉に違和感を覚えて言い淀んだ羽を、大伴は自分の胸に引き寄せました。大柄な大伴が羽を引き寄せると、羽の身体は周りからすっかりと隠されてしまいました。大伴の身体は、まるで一仕事終えたばかりだというように火照っていました。
 大伴は羽にだけ聞こえるように小さな声で、素早く言葉を続けました。その声は先程までの朗らかなものとは一変して、ひりひりとした緊張感を感じさせるものでした。

「ここでお前に会えたのは、まさしく精霊のお導きだ。いいか、お前にだけ大事な話がある。俺に調子を合わせてくれ」

 そして、再び羽から少し離れると、宿営地の中で近くにいる人々に聞こえるように、大伴は大声を上げました。

「みんな、俺は羽と共に、放牧している羊どもを見回ってくる。しばらく離れるがよろしく頼む」

 大伴は、周りの者にも、もちろん羽に対しても、それ以上の説明はしませんでした。
 「やれやれ、病が回復したばかりなのに羽も大変だな」、「大伴殿も戻ったばかりなのに熱心なことだ」、「久しぶりに親子で見回りもいいのかもな」などと、放牧に熱心な親子に対して親しみの表情を見せる人々の間を、何も言わないままでずんずんと通り抜けて行きました。
 羽にとっては、突然予想もしていないところで現れた大伴ですが、よく考えてみれば、彼には大伴に問い正したいことがあるのでした。そうです、どうして大伴が竹姫に対して「二人は高熱を発して倒れていた」と話したのかについてです。
 羽は足早に歩く大伴の背を追いながら、声をかける機会をうかがうのですが、大伴はこれ以上は宿営地の中で話をするつもりはないようでした。話しかけられることを一切拒絶するようなその大きな背中に対しては、羽はとても声をかけられませんでした。
 結局、大伴が一度自分の天幕に帰り少し大きめの革袋を手にして戻ってきた以外は、二人は無言のままで馬だまりへ真っすぐに進んで行ったのでした。



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