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月の砂漠のかぐや姫 第16話

 羽も、これほどの大きな砂嵐は経験したことがありませんでした。ただ、遊牧経験の豊富な父から、砂漠で遭遇するかもしれない大きな危険の一つとして「ハブブ」と呼ばれる大砂嵐のことは聞いていました。ハブブの規模、風の強さ、巻き上げる砂の量は、通常の砂嵐とは比較することのできないほど大きなものだといいます。そして、なにより、恐ろしいのは‥‥‥。

「竜巻だ」
「竜巻? あの、壁みたいなのが竜巻なの?」

 必死で考えている羽の口から、いつの間にか最も恐れているものの名が、漏れ出ていました。そう、竜巻です。
 砂を巻き上げている嵐の中でも、その箇所によって風の勢いには強弱があり、風の勢いが最も強い個所では、風が漏斗状に渦巻いています。その、竜巻と呼ばれる風の渦は、地上にあるすべてのものを、吸い込み、砕き、大空へ放り投げてしまうのです。
 一度、竜巻に出会ったが最後、地上にあるもので、逆らうことができるものはありません。その恐ろしさと言ったら、豊かに水をたたえたオアシスが、ハブブがもたらした竜巻によってすべての水を天上に吸い出されてしまい、それが通り過ぎた後には、単なるくぼ地になってしまった、という話があるほどでした。

「いや、あの黒い壁は、ハブブが巻き起こす砂の量があまりに多いからああ見えているだけで、普通の砂嵐だ。と言っても、それはそれで、すごい風と砂だけどな。だけど、見えるか、その中に何本か黒い筋がうろうろしているだろう。あれが、竜巻だよ。くそっ、こんな大きなハブブ、見たことないぜ」

 二人が話しているうちにも、ますます風の勢いは強くなってきていました。黒い壁はどんどんと大きくなってきています。明らかに、ハブブが二人の方へとその領域を広げてきているのがわかります。

 グウウゥ。グイェエエ‥‥‥。

 二人の横で、駱駝が不安そうに声を出しました。
 輝夜姫も心配そうに羽を見つめています。
 何らかの行動を起こすならば、残された時間は幾ばくもありません。

「どうする、どうすればいいんだ」

 羽は、必死に考えました。自分の判断が誤っていれば、自分だけでなく輝夜姫までも危険にさらすことになるかもしれません。
 目の前では、まるで二人を包み込もうとするように、ハブブの黒い影が大きく広がってきています。
 全身に打ち付ける風の勢いが、ますます強くなってきました。
 このままここに留まっていては、すぐにハブブの中に取り込まれてしまうことでしょう。
 焦ります。時間をかけて考える猶予はありません。

「考えろ、輝夜を助けるにはどうすればいいんだ」

 父上はどのように言っていたっけ。砂嵐の時には、身を低くして動かないのが基本。だが、このままここに留まれば、間違いなくハブブに呑み込まれる。その中で暴れている竜巻に吸い込まれる危険も十分に有り得る。では、逃げるか。だけど、逃げるってどこへ? 
 ハブブの勢いは風の勢い。風より速く走って逃げられるはずはない。それに、周囲は隠れるところのない一面の砂漠だ。せめて、ゴビの台地ならば、風を避ける場所を探すことができたかもしれないのに‥‥‥。

「痛いっ、風が痛いよ」

 輝夜姫の声に背を押されたかのように、羽は決断を下しました。

「ここにいてもハブブに呑み込まれてしまう。逃げるぞ、輝夜。駱駝に乗ってくれ、走れるな?」

 内容は異なるにしても、全ての人に、このような決断を迫られる場面が訪れるはずです。それは、「あの時に別の決断を下していればどうなっていただろう」と、後で何度も振り返ることになる「決断」です。
 羽にとって、この「ハブブから逃げる」ことを決めた決断は、まさにそのようなものになりました。そうです、「あのときに逃げなかったらどうなっていただろう」と、羽は、何度も振り返ることになるのでした。
 とはいえ、決断は下されました。羽は輝夜姫がここまで乗ってきた駱駝に膝をつかせて、輝夜姫がその背に乗るのを助けると、自分は先程捕まえた駱駝の背に、手綱を頼りにするだけで身軽に乗り込みました。

「わかった。頑張るよ」

 輝夜姫は羽に「どうする」とは聞きませんでした。ただ、どのように指示されるのか、それに対して自分がどのように応えるのかに集中していました。羽には、輝夜姫から寄せられる信頼が、痛いほど伝わってきました。

「なんとしても、輝夜だけは守りたい。このままここに留まっていても、間違いなくハブブに飲み込まれる。逃げれば、いくらかでも時間が稼げる。その稼いだ時間のうちに、ひょっとしたら、ハブブがそれてくれたり、あるいは、生じたときのように前触れもなく消滅してくれるかもしれない。最悪、追いつかれたとしても、現状と何か変わることがあるだろうか」

 それが、このときの「決断」で「逃げる」を選択した、羽の考えでした。
 かろうじて、薄雲を透して星の位置は確認できました。
 幸いにも、身を隠せるような地形の変化があるゴビの台地は、ハブブが巻き起こす砂嵐とは反対側でした。
 砂嵐の壁はどんどんと近づいてきています。足元の砂も、強い風に流されて、まるで水のように動き始めています。視界全体に広がっている砂嵐の壁から、幾本もの竜巻が角のように突き立っているのが、はっきりと確認できるようになってきました。
 時間がありません。

「いくぞ!」

 羽は、駱駝に合図を送りました。


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