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狂気に呑まれる『セブン』

不朽の名作であり、永遠の難題

最近、YouTubeで見た数学界で永遠にコレと言う正解が出ないみたいな学説。この映画はそれに近いと思った。

デヴィット・フィンチャー監督の表現とか、各名優陣の演技だとかは他の映画に比べたらそりゃ格段にハイレベルなのはもちろんだけど、この映画の何が一番の特徴かってクライマックスの不可解さだよね。今回見たのが何回目か分からないけれど、それでもクライマックスのパトカーでの3人の会話のシーンで眠たくなってしまったw

ただこれはその前のジョン・ドゥ(ケヴィン・スペイシー)が言っている「この結末は不可解かもしれない。けれど人々は理解しなければならない」的な民衆(観客)に向けられたセリフで予防線が張ってあるので、正解かどうかというより、僕らが考えるべきことなんだろう。

ジョン・ドゥがしたのはあくまで問題を浮き彫りにして提起しただけであって、そこをどう解釈していくのかは観客次第。的な。ね。

サマセットの狂気

僕はとにもかくにもモーガン・フリーマンが大好き!!!!って感じなんですが、そういう人は洋画好きの中には多いんじゃないかな?坂口芳貞さんが亡くなられて久しいですが、久々にあの吹き替えが聞きたいと思ったものの、アマプラには残念ながら字幕版しかなく・・・断念。

さて、そんなモーガン・フリーマンが演じた定年間近の老刑事サマセットですが、久々に観たらとても彼に感情移入してしまいました。10代の頃に見たときは感情的で正義感なミルズ(ブラッド・ピット)に入れ込んで、「なんだこのジジイは!?」と思った程でしたが、毎晩のように凄惨な事件が起こる街で殺人課の刑事として定年まで働いた彼が、精神を蝕まれながらも孤独に一人戦う姿が読み取れて、思わず泣くところでしたね。

特に、夜眠れずに図書館に行って捜査のために本を読みあさったり、一人で黙々とダーツ盤にナイフを投げ続けるシーンなんかは、狂気に当てられ続けてもギリギリ正気を保っている雰囲気なんかを感じて、妙に親近感が湧いたりw ミルズと一緒にいるシーンなんかは理路整然としていて立派な刑事に見えるんだけど、どこかに犯人側と共感する部分を持っているからこそ興味を強く持ったり理解しようと出来るんでしょうねぇ。それか働いてるうちに培われてしまったのか・・・。

ジョン・ドゥのカリスマ性の説得力

ジョン・ドゥ(ケヴィン・スペイシー)が実際に姿を現した時間ってラスト30分ぐらいだと思うんですけど、それにしてはとんでも無く強烈な印象を与えられたし、この映画を語る上では絶対に外せない存在ですよね。

それはそのクライマックスに至るまでに、いかに「こんなイカれた事しやがるのってどんな奴だよ!?」っていう風にサマセットと同様に引き込まれてるかってところが大きいと思うんですけど。最近で言えば、『桐島、部活辞めるってよ。』では最後まで桐島がちゃんと登場こそしないものの、桐島という存在が強烈なインパクトを残す映画になってますよね。それと似たような感覚なんだと思うんです。

ジョンが「私は特別じゃない。私がしたことは特別だがね」と言う通り、ジョン・ドゥという人間が出てこなくても、彼がしてきた事だけで僕たちは引き込まれてしまったし、しっかりと影響を受けてしまっている。結果、僕たち観客も主人公の刑事二人と同様にジョン・ドゥの策略にはめられた一員なんですな。・・・ただそう思うと「くやしぃいいい!!!!」って気持ちになっちゃうけどw

それにしてもジョン・ドゥがケヴィン・スペイシーで本当に良かったと思う。『ユージュアル・サスペクツ』でも同様に警察を掌の上で操る犯人役をやり遂げてるけど、今作もケヴィン・スペイシーじゃなかったら、いかにブラッド・ピットとモーガン・フリーマンがいるとしても、クライマックスのシーンは成立しなかったと思うし。ああいうとんでもない狂気に触れられるのもサスペンス映画の醍醐味ですよね~~~。

文末(あとがき)

いかにこの3人が文句なしに名優だとは言え、ほぼこの3人だけでこの映画を成立させているのは流石というか神業ですよね。やっぱりモーガン・フリーマンという大黒柱的な存在が大きいなと思いましたが、他の二人もとんでもない振り幅をこの作品には作り上げてますよね。

余談ですが、今作で今年見た映画は90本目!!!!

映画評も無理せず楽しむぞ~~~。

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