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『かぐや姫の物語』雑感/死人の姫が束の間掴んで手放した生の穢れ

高畑勲の訃報を受けて、急遽5月18日の『金曜ロードSHOW!』で放映された『かぐや姫の物語』。恥ずかしながら初めて観ました。この文章はツイッターで書いた感想をちょこちょこいじったものの羅列です。

……のつもりだったけど、加筆している間に原形がどっかいったし、結構なボリュームになってしまった。

「穢れなき清浄の世界である月の王族であるかぐや姫が地上送りにされたのは、穢れた世界である地上に恋い焦がれてしまったかぐや姫に『地上はクソだ、私の居場所じゃない』と認めさせるための思想矯正プログラム。」という高畑監督の考えた身も蓋もない竹取物語の裏設定を踏まえた上で、以下僕の雑感の垂れ流し。とりとめとか脈略とか整合性とか起承転結とかないです。内容が重複しても気にしないぞ。この作品を語るのにそういうの整えるの自分は無理でした。それくらい、心を揺さぶられたってことにしといてください。

では、非常に読みづらく、センチメンタルで見苦しい悪文ですが、どうぞ。

18日にやって『かぐや姫の物語』観たけど最高やったやん。1000年以上の永きにわたって読み継がれてきた『竹取物語』にこれからの100年に耐えうるアップデートを施した大傑作ですね。普遍性の塊かよ。

嫌なことが一切無いストレスフリーな月世界は死者が住まうディストピア。西欧やアメリカ基準のリベラリズムやポリティカルコレクトネスのシステムエラーがそこかしこで顕在化しつつある世界の行き着く先がどうなるかをシミュレーションした見事なSF作品ですね。「生は穢れを内包している」とした漫画版『風のナウシカ』のテーマとも通底してるとも感じた。納得の師弟関係。(しかし、高畑はそれを声高に訴えるようなキャラーまあナウシカなんですけどーには醒めた眼差しを向けている。)

ツイッターで散見された「かぐやの気持ちわかる!あたしのまわりにもまともな男が一人もいないもん!」とか「そんなアプローチの仕方は前時代的だ!セクハラセクハラ!現代で通用すると思うな!」とか「女の生き方を勝手に決めるのいくない!」とか「私は自分らしく生きたい!」、そういう方面にシンパシー感じてる人には残念なお知らせだけど、この作品って、そういう誰にでも言えそうな開明的マインドを謳いながら清潔な都会(特に東京23区西南部エリア…我ながら歪んだ被害妄想だ…笑)に住んで「オーガニックだーいすき!」とか言ってるようなキラキラ女子さんの顔面にめっこり決まったカウンターパンチですわ。きれいに決まりすぎて眠るように失神KOして、控え室で目が覚めて「……!あれ?試合はどうなった!?」ってなるタイプの。

男女問わず「グッドコミュニケーション以外はいらない」とか「キラキラした生き方しなきゃ人生失敗」という呪いにかかってる現代人の苦悩や迷走を鮮やかに反映していると思いました。お仕着せの婚姻や伝統的幸福論を否定するだけ否定しておいて、誰とも繋がれずに今生に別れを告げるかぐや姫……まさに「姫の犯した罪と罰」。

では、なにが「罪と罰」なのか。

死者の世界である月にいる間は「穢れ多き地上の生に憧れてしまった=罪」「生の穢れのなんたるかをわからせるために地上に流されて(受肉)しまった=罰」

生者の世界である地上にいる間は「地上に憧れた姫は穢れだらけの地上を愛したが愛しながらも拒絶してしまった=罪」「生の一部である穢れを拒絶してしまった死人の姫は一切の穢れの無い清浄なる死の世界である月に連れ戻されてしまった=罰」

現実を生きる誰もが少なからず抱える他者とのコミュニケーション不全の問題や幸福観の模索を続ける中ではまってしまうド壷をもっともビビッドな形で描き出しているのが、本作『かぐや姫の物語』なのだ。たぶん。


本編では竹取一家が栄達を求めて都に出てきてしまったためにいろいろめんどくさいことになってしまったわけだけど、かぐやは竹取の里から出なければ、ありのままに真っ直ぐ自由で幸福でいられたのだろうか?本当に?

おそらく、そうではないだろう。かぐやがかりそめであっても生者である以上、世界が社会が他者がそしてかぐや自身の自我がかぐやに負荷をかけてくる。そこから逃れる術はただひとつ。かぐやが再び何も感じない死者となって月に帰ることだけだ。

翁が「高貴な姫なんじゃー!京都に行ってしかるべき高貴な殿方に嫁ぐべきなんじゃー!」とか言いださずに竹取の里にとどまって慎ましく暮らし続けていても、かぐやが世の中の有形無形のしがらみや自分の内にある渇望の浅ましさを呪わずに、「自分らしい自分」などというものを無邪気に全うできたとは到底思えない。

野山を駆け巡っていた幼児時代ですら、かぐやと捨丸の住む世界は微妙にずれていたのだ。かぐやを授かった翁と嫗の家は裏の竹林を資産として持ち定住する夫婦だが、対する捨丸の一族は定住する地を持たず、数年のサイクルで幾つかの拠点を移住し続ける流浪の民だ。

あのままかぐやが捨丸と懇ろになったとする。かぐやが捨丸の一族に嫁に入ったならば、かぐやはいままで自分を慈しんでくれた翁と嫗を捨てることになる。逆に捨丸を婿に迎えたとすると、捨丸を一族から愛しい息子と貴重な労働力を奪うことになる。いずれにせよかぐやは自分の「穢れた生」を呪い、月の住人を召喚する結末を迎えただろう。


境遇や環境だけの問題ではない。かぐや本人にもコンフリクトを生むエラーが意図的に仕掛けられている。

これは月の住人がかぐやを地上に受肉させる際にチートしたことなのだろうけど、その美貌といい溢れる才気といい、あらゆるパラメーターをカンストした状態で地上に降臨したかぐやはパーソナリティとしての質量が大きすぎた。大きな質量は強い重力を生む。強い重力はいやが応にも人々を惹きつけてしまう。かぐやが他人をなんとも思ってなくても、人々はかぐやを無視できない。善意であれ悪意であれ自分の持てるものをかぐやに差し出してしまう。であるにもかかわらず、自らは誰にも何も与えようとしなかったかぐやは、他人の生気を吸い尽くすだけのブラックホールだ。

だが、かぐやはそのことに無自覚だ。その美しさもさることながら、かぐやの行きすぎた天才性は自分より劣る者に対しての共感を阻害する。いわゆる「天才は凡人を理解できない問題」というやつ。

自分の価値に無自覚な者が無遠慮に振りまく魅力など周囲の人間にとっては暴力に等しい。それは「チャーム(魅了)」の能力とか「魔性」と言い換えてもいい。事実かぐやの魔性は翁や捨丸、秋田、五人の公家もふくめ多くの人間を狂わせた。翁はかぐやのために手に入れた金子(月からの支援)を元手に都に屋敷を構えという無茶を実行し、5人の貴公子はかぐやを手に入れるために割に合わない行動をしてある者は命まで失った。(唯一、御門だけは自らの絶対性を盲信し、かぐやに袖にされてもめげない図太さを持ってたけどそこはさすが天子様である笑)

思い返すと、かぐやは子供の頃も竹取の里では男の子とばかりつるんで遊んでいた。なんのことはない、かぐやは「男に人生を狂わされたかわいそうな女性」などではない。無自覚に男を惹きつけて狂わせてしまうナチュラルボーン・ビッチだったのだ。「オタサーの姫」の最上種ともいえる。

フェミ風味の人たちがかぐやを男社会の犠牲者のように扱うのは、かぐやこそがジェンダーロールにおいて女側の最強のプレイヤー=「超アルファ雌」となりうる存在であることを女の本能で察知しているからなのだろう。

よく「女の敵は女」というが、かぐや(のような女の武器を全て持っている女)こそが世の女性にとって最強最悪の競合者なのだ。そうさせまいとして、あるいはそうならなかったからこそ、かぐやを「男社会の犠牲者」と断定し一方的に同情をよせる。「かぐや……あなたも私と同じだよ」と。そうすることで、かぐやのような超アルファ雌にマウントし、精神衛生を保っているのだ。

だから逆にもし、かぐやがあのまま宮中に入っていたら、かぐやの美しさや聡明さへの嫉妬に狂う宮中の女性たちの怨嗟は筆舌に尽くし難いものになっていたはずだ。かぐやに同情していたフェミ風味の人たちも手のひらを返して「アンタのようにジェンダーロールの勝ち馬に乗る女がいるから男社会の専横が続くのだ!この裏切り者!!」と罵ったことだろう。あーでも、それでスッキリするならいいと思います。


この魔性を纏う限りかぐやは竹取の里や都以外のどこにいても、居着いた先で惹きつけた人々を狂わせ災禍を招き、やがて自らをもその居場所ごと蝕んだはずだ。

しかし、それはかぐやが望んだ「生の穢れ」そのものでもある。穢れは穢れであるがゆえに許容し難いものだ。拒絶することでかぐやが初めて獲得する本物の「生の穢れ」となる。

本編では御門に後ろから抱きすくめられて、かぐやはそれまで見せたことのない拒絶の表情を見せる。これこそが、かぐやが生まれて初めて心底「生の穢れ」を体感した瞬間だった。同時にあれだけ焦がれていた「生の穢れ」を拒絶してしまった。「穢れの拒絶」はかぐやの旅の終わりを意味する。それがかぐやが地上に流される時に月世界と結んだ契約だから。

「そんなのは横暴だ!」と思うかもしれないが、この時に当のかぐやも月の住人としての本性を垣間見せている。実体を失ったかのように御門の腕をすり抜け、消えたかと思ったらまた現れる……まるで幽霊のように。御門の手から逃れるために月の住人由来の能力を使ってしまったことで、どんなに地上の人間ぶっていても、根っこの部分では月の世界の死者の王姫であるとこがつまびらかになってしまったのだ。あとは手筈通り月からの迎えが来るのを待つのみとなる。

少々意地悪な例えをするとするなら、テレビで見たアマゾンの大自然に憧れて、パックツアーでブラジルのジャングルに旅行に行った東京都心在住のキラキラOLが、現地で蛭に噛まれたのにびっくりして以降の日程を全部キャンセルして日本に逃げ帰ったようなものだ……東京都心在住のキラキラOLになんの恨みが?余計にわかりにくくなった気がする。


世間の残酷さにくじけたり、身の程を知って挫折してたりして、順風満帆だった人生にケチがついてからが本当の人生の始まりだ。かぐやも、他者を世界を拒絶することで自己と他者や世界との境界を設定し、かぐやのかりそめの生は、穢れにまみれた本当の生に昇華された。それが穢れを忌避しながらも穢れを抱えて生きていくのが地上の生の理だ。生きることの穢れや苦しみがなければ、その対岸に立ち上がる「生きるよろこび」などというものもありえない。

しかし、月の清浄はその淀みを認めはしない。月の人間にとって「生きるよろこび」などというものは幻想だ。生物が生きていく上で犯さざるをえない罪(他の生物を殺して食べる)や艱難辛苦、やがて訪れる死への恐怖をやり過ごすための精神安定剤でしかない。一切の悲しみや苦しみから解放された月の世界の姫であるかぐやには必要のないものだ。それが死者の世界の慈悲なのだ。そこに情状酌量や例外という概念が刺し挟まる余地はない。

生の穢れに憧れていたはずなのに、いざ自分が穢れる局面に際して穢れを拒絶してしまう死者の世界の姫かぐや。「穢れを拒絶し助けを求めたな?ほぉーら、言わんこっちゃない。これでわかっただろう、お前のように飛び抜けて優れた存在は周囲の人間も自分自身をも不幸にするのだ。迎えに行くから全てを忘れて穢れない世界に帰ろうねー。」と容赦ない慈悲深さでかぐやを成仏させにくる月の住人。

かくして、愛しい人たちとの別離が確約されることでかぐやのモラトリアムが終わり、妻子ある捨丸兄ちゃんとのパコりという不義を経て「穢れた生への憧れ」は成就する。

そのパコりというのが言うまでもなく、物語終盤のかぐやと捨丸がふたり仲良く空を飛び回るパートだけど、誰がどう見てもふたりの最初の最後のセックスのメタファーですね。肉欲の奔流に身を委ね全ての責任や宿業から解放された一回こっきりの後腐れのないセックスだったからこそ、大空を自由に飛びまわるかのように突き抜けた最高の悦楽として描かれたのだ。浮世からのつかの間の逃避だ。目が覚めたら忘れてしまう泡沫の夢だ。ひとつも確かなことがなく、全てが間違っていて、生産性の欠片も無い。だからこそ美しく楽しく気持ちよくて寂しくて苦しくて悲しい。まさに人生そのものだ。

二人のランデブーはかぐやが浮力を失い入水することで終わる。そうしてようやくあの一瞬だけは、かぐやは天に舞う死者の天女ではなく、地を這う生者の女になれたのだ。

また、これは心中のメタファーでもあるのだろう。ただし、生に執着する捨丸は死に切れずに妻子の待つ元の生活にもどり。月に帰ることが決まっているかぐやは死者の世界である月に帰っていく。


かぐやも捨丸も翁も嫗も五人の公家たちも御門も相模も女童もみんな愚かで愛すべきクソだったですよ。ただ、自分の生が穢れたクソだと認めた時点でその自意識すら没収されてしまう契約だったかぐやの悲劇性はやはり際立っていたのだと思う。

そう思うことすら、生に執着し死を恐れる地上の生者の世迷いごとなのだろうか。自分が死んだ後に残るかどうかもわからない「自分が生きた証」に執着することは虚無なのか、そこから解放されて苦しみも悲しみも喜びも無い境地に至ることが虚無なのか。やはり、そんなことをくよくよ思い悩むことすら月の世界から見たら愚かしいことなのだろうな。まあ死んだら分かるさ。生きてるうちはわからなくていいだろう。


とまあ、ここまでダラダラと書き連ねてきたような能書きを、迎えにきた月の使者たちが乗ってきた雲の上で涙ながらに朗々と説くかぐやと漫画版『風のナウシカ』7巻で墓所の主と生命のあり方について論戦するナウシカと重なったわけですが、月の使者はかぐやの都合なんぞお構いなしに自分の言葉に酔いしれるかぐやに羽衣をかけて演説をぶったぎりとっとと回収してしまう。

そのドライさがまあすごい(語彙不足)。2時間かけて描いたかぐやの短い人生到達点のはずなのに(少なくとも観客はそう思っている)、かぐやにも観客にも誰にもそこにとどまって浸ることをさせてくれない。必要以上にかぐやに感情移入させないための高畑監督の思いやりなのか悪意なのか知りませんけど、「そんなことは誰でも言えるんだよ」というこの突き放し。

かぐやが束の間掴んで手放してしまったもの……「生きることの罪と罰、その穢れと煩悶こそが生の本質なのだ」。そんな小娘の短い生から一所懸命学びを見出そうとした中年が束の間掴んだものすら最後まで言わせてもらえないなんて……高畑監督ぅ、あなた鬼ですか……でも、こういうのもきもちいいですぅ……。

はなからかぐやの意思など介さない月の王に比べたら、一度はナウシカの言い分を聞いた上でこれを論破、教化ようとした墓所の主はまだまだ甘ちゃんだ。たぶん、墓所の主人がまだ生に執着しているからだろし、そこが宮﨑監督の熱さでありエンターテイメント性か。ここら辺は高畑監督と宮﨑監督の作家性の違いなんでしょうね。みんな違ってみんないい。

凡人としての救いは、かぐやというヒューマノイド・タイフーンが月に去った後、かぐやの魔性の重力圏から解き放たれた人々がみな穏やかな営みを取り戻していたことですね。チルみがある。

かぐや姫は「社会はクソだ、私の居場所じゃない」と思った時点でオートマチックに月に連れ去られてしまう運命でしたが、僕ら現実の人間は「社会はクソだ、私の居場所じゃない」と思っても思っただけでは月からお迎えがやってきてくれるような都合のいい結末はやってこないので、なんとかかんとかやり過ごしましょう。かぐやが唯一、地上から持ち帰ったものがまた地上に還ってくる日のことを想って。

では一曲聞いてください。TM NETWORKで「Beyond The Time~メビウスの宇宙を越えて~」


最後になりましたが、高畑監督、素晴らしい作品をありがとうございました。



雑感の残骸↓

御門に求愛された時、かぐやは姿を消すスキル使ってたけど、帝を強く拒絶するあまりに封印されていた月の住人(死者、幽霊、霊魂だけの生き物)の能力が解放されてしまったんじゃろか……同時にSOSのシグナルが月に送信されてしまった?ああでもそう考えると捨丸とセックスしたあと月の住人の能力で捨丸の記憶を操作したんだろうな、と納得できる。かぐやが美しく頑健な肉体をもって地上に受肉したこと自体、月の超テクノロジーのサポートの賜物だろうし、なんなら有機体の肉体なのかも怪しいな。羽衣をかけられただけで初期化されちゃうし。


あと、女童が最高に好き。女童グッズないかと思って検索したら本当にほぼ何もないじゃないか!何やってんだよぉ


正直いうと、今回のnoteは1〜2割ぐらいこちらの動画『#231【高画質】岡田斗司夫ゼミ 『かぐや姫の物語』は、高畑監督から宮崎監督への挑戦状だった!?』からのインスパイアっつーか、まあ受け売りです。note自体は放送の前に投稿したんですが、聞きながら書き直した箇所がちょぼちょぼあるんですね。そもそもかぐやはどうして地上に憧れてしまったのか、月に戻ったかぐや姫がどうなるのか、その因果と輪廻のサイクルが解説されています。無料だし見て損は無いと思いますよ〜。

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