直観を育む場について思考を巡らせる
現象学とSECIモデルの相性の良さより、思考を整理する。
直観の経営 「共感の哲学」で読み解く動態経営論を読んだ。SECIモデル考案者の野中さんの話は好きで、日々、暗黙知と形式知のサイクルを意識している。現象学は経営について調べた時から主体と客体の考え方に興味を持っていた。
その二つがむしろ近しい存在として語られているのが本書だ。現象学と経営学の相互作用は、我が意を得たりな内容で興味深かった。結局、身体知でワイガヤでコンパなのだろうか。知の創造は場でもって創出されるのだと。
この手の潮流及び野中さんとフッサールの現象学は自身の体感とも近く、実践値に落とし込む戦略を見事に表現されていて夢中になる。身体的感覚を伴う対話が相互主観となり、新たな形式知や個人の生き方を形成する流れがお見事なまとめだ。
ナラティブの話も成るという考えも場も現代心理学の流れを思わせて、知的創造の本流と咀嚼。書籍としての作りも見事で、対談形式が挟まることで二項を昇華する様を体験できた。
知覚 → 直感 → 推論
人と人とのコミュニケーションは情動を感じとることが求められる。目の観察であれ、口と耳のやりとりであれ、動き(言葉)の知覚から始まる。蓄積された知は記憶となり、視覚像が完全一致しなくてもやりとりが可能となる。
この知覚(知覚表象)は行動経済学でノーベル賞も受賞したダニエル・カーネマン 心理と経済を語るより、人間の直感が関係すると解く。(なお、本書はプロスペクト理論や限定合理性のお話)。
本書実験例より、知覚システムによってパッとわかる場合と、頭の中で計算をしないと導き出せない場合があることがわかる。後者は合計を求められる時に発動する知覚だが、なぜか合計ではなく平均を基準にするエラーが内在しているとのこと。
情動は前者の直感が働きやすいと知覚と言えそうだ。「なんとなくわかる」という感覚は状態ではなく変化を捉える知覚システムが強く働くからなのだろう。ただ、意思決定の場において状態より変化を重視する推論は判断を見誤りそうだ。
かといって、後者の知覚もエラー(平均値にアンカリング効果)がつきもの。知覚に頼る推論は、暗黙知から一度形式知するなりして客観視しなければ気付きにくいのかもしれない。もしくはこのエラーを回避する他者や場が必要だ。
推論のエラーチェックを繰り返せる場が、知の創造サイクルを産むと創造すると、他者とのコミュニケーション(知覚の連続性)は情動を切り離すことができないどころか、一体化(情動一致)が必要になるのは自然なことだと感じる。
SECIモデルのサイクル「場」
一度腹を割って話すだの、互いの情動をエラー前提でとらえきるだの、文書化するなど、アナロジーを交えるだの、物語るなど、これらはSECIモデルのサイクルとなる。
仮説となる推論は人の癖となる直感の思考が知覚によって発生しやすい。これに気がつくには自分以外の他者との共感が必要で、これがSECIモデルでいうところの共同化(暗黙知→暗黙知)となる。
主観的な情報を情動と共に知覚(言語や情報を交わす)することで、表出化(暗黙知→形式知)となる。これが、知の創造サイクルの始まりと考えると、その発動となる会話・対話の場が求められるのは必然だ。
リモートワークなのか出社なのか議論も、この身体知を伴うやりとりこそがイノベーションを産む「場」の選択と考えられているからなのだろう。
身体と心のあり方
「場」は「心」を求める。
昔なら、飲み会やタバコ部屋会議。今は意図的にそのような空間を作る必要がある。この心は身体と密接な関係があるので、ライフサイクルの変わった現代では、オフラインかオンラインなのかが問われがちだ。
生身の身体が知識創造にはやはり必要なのだろうか?
心の距離感が変化しやすい時代なので、組織ではどこまで繋がりを作ればいいのだろうと少しモヤモヤとはする。飲み会は身体知共有に強力だが、少々便利に使いすぎなきらいがあるからだ。
心と身体の関係については、あわいの力 「心の時代」の次を生きる (シリーズ 22世紀を生きる)にヒントがありそうだ。能楽より「身体」のあり方を、言葉(象形文字)より、「心」の芽生えとあり方を考察している。
オーケストラと違って、能楽の囃子(はやし)は、基本リハーサルをしないと聞く。一度ぐらいは合わせるらしいが、あとは「場」の流れ次第。そもそも指揮者もいない。掛け声ぐらいしかない。あと日によって楽器の調子すら変わる。
日々の鍛錬だろうが、演奏の「場」を成り立たせているのは、他者を前提に行動する共感力が強い状態と言える。この知覚は皮膚感覚でもあり、呼吸を合わせた結果だ。つまり、空間上の暗黙知である「身体」の使い方が抜群にうまい。
同著者の日本人の身体では、能楽師が満員電車に揺られているとこの感覚が弱まるというエピソードも出てくる。
古典芸能から、身体の使い方を学んでみたが、この境界の曖昧さは情動一致の方向性と似ている。他者との一体感を生み出すことが今風に言うと、心理的安全性やエンゲージメントの高さであり、求められる「場」となる。
その際に「心」の扱い方が重要になってきている。先ほどの私の飲み会なのか?という問いは、その「心」の扱い方が非常にデリケートになっているからだ。
能楽の話をまとめると、今に集中している。時間軸が現在に集中していて、未来を意識していない。「心」は未来を考えてしまうので、将来の想像は不安だし、コントロール不足領域になる。つまり、未来ではなく今に目線をうつすべきなのだ。
これができるのは、「心」をどの時間軸で捉えているのかという話になるので、少々壮大になってきた。瞑想や深呼吸しようぐらいでお茶を濁しておくが、「心」も身体の一部なので、身体(心)の運動をしようという話になる。
野中さんの話に戻すが、「いま・ここ」を提供する場の話になる。個人の主観を超えるには共感する場が必要だ。それが組織化である。
つまり、今とは、集中し続けている状態(ゾーン)なのかもしれない。気が散らない、心理的に負担がかかる状況にない。そういった集中する場が組織では求めらているといえよう。
そうなると、場の提供は飲み会だけではない。様々なタッチポイントがある。今に集中することができる「場」は「身体」と「心」のために必要なことに思う。複数あることが望ましい。いろんな一体化の形があっていいように思う。
ナラティブとメタファーが直感の鍵を握る
この「場」からSECIモデルのサイクルを回すには、暗黙知をどう相手に伝えるかとなる。そこで例え話が考えられる。仮説であり、見立てだ。つまり、表出化(暗黙知→形式知)においては、メタファー思考が求められる。
次に連結化(形式知→形式知)には、理論や物語(ストーリー)が求められる。ストーリーは物語る(ナラティブ)必要がある。
このとき、事実の直視にはアブダクションの思考法も活躍する。本書でも丁寧に現象学を交えて書いてあり、話がつきない。同著者の別冊では、この物語(ストーリ+ナラティブ)の強力さや現場の直視による直感の話を学べる。
共感経営 「物語り戦略」で輝く現場。まだ読んでいるところだが、経営学は共感の時代に入ったことが見えてくる。本書では「共感→本質直観→跳ぶ仮説」の実践が現場より垣間見える。
楽しく踊って遊ぼう
思考を巡らせてみたが、まとめてみる。
現象学とSECIモデルより、直観の力が見えてきた。知識創造を創出する場は、一体感が求められる。このとき、知覚の癖を知ることに加えて、身体(心)の扱いを交えて、深い洞察へと導く必要性も見えてきた。
共感からはじまり、暗黙知を形式知にすること。その際には例え話を交えるような会話ができて、境界線をなくすような一体感を得る。これを戦略とし、日々の変化に対して、今に集中する。そして直観する。そのためには物語る必要がある。
つまり、祭りだ。踊ろう。楽しもうということにつきる。もっというと、遊ぼうということかもしれない。みんなが楽しく笑顔で、一体感を持って今に集中しているということは遊んでいるということなのだろう。
夢中でいられる「場」づくりについてこれからも現場で思考を巡らせたい。
ただ、この考えをまとめるだけでも一苦労。一人での暗黙知から形式知はアウトプットからのインプットを繰り返しても限界を感じる。つまり、仲間や友が必要だ。書くだけでない、対話が必要だ。
つまり、結局、飲み会、ということになるのかもしれない。飲めや歌えや踊れや。
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