言語科学から学ぶ人間のコミュニケーション力
つまり、ハイクを詠めということなのか。
言語はこうして生まれる 即興する脳 とジェスチャーゲームを読んだ。言語学といえば、ソシュールやチョムスキー(生成文法)の流れがあるが、今回は認知言語学の世界の新しい仮説として本書を読んだ。
きっかけは著者ニック・チェイターの前作、心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学がおもしろくて。心に深さはなく表面しかないと捉える無限再解釈・再評価なる人間の認知がささったのでその続きにと手にした。
英題は「The Language Game: How Improvisation Created Language and Changed the World」。その場のやりとりが蓄積されて言語になると捉えるとおもしろいなと感じながら読み進めた。
AIが暗黙のルールを理解する時代は来るのか
コミュニケーション氷山の下には、文化や価値観や暗黙のルールに共感などが隠れていると説く。解説では、フラッシュ・フィクションをとりあげていたが、日本人には俳句や短歌がイメージがしやすい。
言葉が削ぎ落とされても、暗黙のルールや文化があるから読み解ける。言語とはそういうものなのかとうっすらと伝わった。おしゃべりのやりとりを想像すればわかるが、その場の意味解釈やこの氷山の下部がポイントになる。
これは本書の数々の実験例より納得度が高い。遮蔽物を通じての会話の実験はオンライン・オフラインの会話の違いを想像させる。インプロ(即興劇)の話より、相手が何を理解しているのかに注意を払う瞬間は常に欲しい。
類人猿は指差しジェスチャーをしないらしい。人間の一歳児も行いそうなコミュニケーションをとらない。その指差し自体も意味を多様に持つ。人間ならではの特徴を本書特に第7章では文化とあわせて掘り下げている。
終章でGPT-3を取り扱っているが、単語や句や文は再解釈できても、暗黙のルールを求めるのはまだ困難に思う。これは身体知がかかわるのか、ロボットになってジェスチャーができれば可能なのかは楽しみな流れだ。
曖昧なやりとりを即興で成り立たせる場の必要性
人間の認知を言語科学の世界から見ると、記憶力やチャンクの限界からその場のやりとりに特化していることが本書から伺える。つまり、人のコミュニケーションはそもそも曖昧性を秘めていることに気がついたほうがよい。
そう構えると、情報の一方向性のやりとりだけだでは限界がある。誤解が生じやすい。相互にやりとりすることがジェスチャーゲーム=言語のやりとりと考えると、リアクション(反応)も大事だなと思えてくる。
オンライン・オフラインの会話問題はリアクションの有無が一つの解かもしれない。音声・文書だけのやりとりでもいいのだが、リアクションが常に欲しい。相互のやりとりの反応でもって、話の意味も内容も変化させている。
オンラインで発表する機会があるとしたら、オンラインの先のリアクションは求めたい。求めることも自然と反応することもわざわざ必要かもしれない。空に向かって放つミュートの世界はよく遭遇する。
コミュニケーション力は、正しい言葉ややりとり以上に、曖昧な伝達を体の動きや反応でもって伝えることはこれからも大事なのだろう。相互のやりとりの回数だけ精度が上がる。
正確な文書を求められるがそもそも即興が先にある
オンラインコミュニケーションの話をしたのは、言語の話ではあるが、文書の話でもある。この二つに違いはありそうだがどうか。ビジネスの場の文書は正確性を求められやすい。しかし、日本語は曖昧性が高い言語だ。
チャット文化のノリで会話するのは身内や友達の範囲。そこに曖昧性を秘めた会話が前提なのは相手の背景や暗黙のルールがあるから。身内ネタが一番笑えると思っているのだが、笑えるのは伝わるから。
笑うことができる環境は、それだけ即興で生じる曖昧性を許容している。いつだって即興劇。思いつきにユーモアも求められる。それが笑えないなら暗黙のルールをチームが互いが持っていないということだ。
正確な文書じゃないと誤解が産まれる。これも暗黙のルール。その環境前提があちこちにあふれている。だからこそ、人間はジェスチャーゲームをしているんだと構えることができれば表出化(暗黙知->形式知)がやりやすい。
暗黙知・形式知を捉えることができれば、新しいコミュニケーションそれこそ英語や他の言語であっても相互を前提にやりとりすればお互いに伝えたいことが伝わるのかもしれない。
ベトナム語と日本語でジェスチャーゲームをした経験
いつだったか、ベトナム出張をしたときがあった。
互いの第二言語はつたない英語。そのため英単語の塊をチャットを通じてやりとりしていた。基本問題なかったが、これはコミュニケーションが取れたと言えたのだろうか。
結局、お互いの雰囲気やご飯を食べて美味しいと思う感情は、いっしょに何かをしていたときに伝わった。そして、互いの母国語であるベトナム語と日本語で理解しようと試行錯誤していたなと思い出す。
そして、通訳(英語)がいたから成り立ったという確信もある。二者間ではなく第三者の存在。英語と日本語なら、その両方を文化と併せて持つものがコミュニケーションの架け橋の立場になるのだろう。
つまり、誰かと誰かをつなぐために第三者もコミュニケーションのつまずきに必要かもしれない。マネージメントやファシリテーターも第三者な役割。あなたと私に加えて、あの人はの客観性(レビュー)も必要なのだろうか。
本書を通じて、言語のやりとりからコミュニケーションを想像したが、仮止めの途中状態を毎度バージョンアップしているのだなと思わずにはいられなかった。
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