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試し読み:『クリエイティブデモクラシー』巻末の鼎談

2023年10月に刊行した『クリエイティブデモクラシー 「わたし」から社会を変える、ソーシャルイノベーションのはじめかた』より、巻末の鼎談をご紹介します。

モヤモヤやままならなさを手放さず、模索しながら前進していこうとする著者3人の肉声が胸に響きます。ぜひ読んでみてください。


著者3人による、もやもや鼎談


──さて、本を書き終えたわけですが、振り返ってどうでした?

川地 自分の担当分を書き終わってからはだいぶ経って感覚も変わっているので、昔の自分に出逢う恥ずかしさのようなものがありますね。

石塚 私は書き終わったのが最近だから、まだ自分の延長上にある感じ。

富樫 川地さんは何が変わったのかな。

川地 考えていることがズレたというわけではないんだけど、ここ最近で解像度が上がった部分がいくつもあって、その反映できてなさ、書けてなさがあるなと。

富樫 書いたことの前提の上で実践している活動があるしね。

川地 書いたことによって上がった解像度があって、見え方が変わったのかもしれない。そういう意味では、1章、2章、3章と、自分たちの変遷を辿っている感じはある。「公共とデザイン」として活動して3年ぐらい経つわけだけど、もともと民主主義というものが大切だなと思うようになったのは、個人個人が生きている手触りを感じるうえで、本書で言っているような衝動から何かを作っていくためには、自分が何を望んでいるかをわからずしてそれを実現するのって難しいよな、という問題意識から始まっていて。自分の望む大事にしたいことと他者の望む大事にしたいことは当然ぶつかりうる。それに、自分の大事にしたいことの輪郭は民主主義的な熟議とか対話のなかからでしか浮かんでこないだろうな、という感覚からだった。つまり、他者とどう調整していくか、どう一緒に営んでいくか、ということが、個人が豊かに生きていくために不可欠だろう。そういうところから民主主義の必要性を実感し始めたわけです。「ソーシャルイノベーション」なんて言葉も、本を書き始める前はそこまで念頭に置いてなかったけど、書くことで染み込んできたという感じ。そして、そのソーシャルイノベーションのための環境づくりにいま自分たちも取り組んでいるということを3章に書いた、という位置づけになるかな。

石塚 そうだね。「公共とデザイン」の法人自体も、「何かやりたい」「やってみたい」という衝動でとりあえずメディアから始めて、記事を読んで共感してくれた人たちと一緒にプロジェクトが生まれ、つながりも増えてきた。そうなってきて、より社会実装していくにはどうしたらいいだろう、もっとこうなったらいいよね、じゃあどうしよう、と考えながら活動してきたわけで、書いたことは今まさにやっていることそのものだなって感じました。

──「公共とデザイン」の活動を通じて生じた変化ってありますか?

富樫 1章で書いたような世界観は3人のなかで最初から共有してたわけだけど、それをどう実践するかについては、自分の場合はわりとビジネスの文脈にある、デザインによって人や行動をコントロールするような考え方が根強い環境にいたので、そうではないボトムアップ的な、「うつわ」を作ることで可能性を高める、そのための活動をする、というデザイン観や実践知の変化はあったな。

川地 それは、自分の思い通りに相手を動かそうとするコントロール志向の設計主義みたいなものから、もっとオープンエンドに開かれた場に委ねていこうという価値観への変化、ってことかな。

富樫 そうだね。社会システムに影響を与えるためには、そういう設計主義とか資本主義的なものをうまく使いながらじゃないと大きなインパクトを出せないんじゃないかと3、4年前ぐらいまでは思っていたところがあって。無論そういうところでできることもあるとは思うから、政策づくりプラットフォーム「issues」はスタートアップとしてやってるわけだけど、この本にも書いたとおり、システムや制度的な部分だけでイノベーションが起こるというのはありえないんだなと思えるようになった。

川地 うんうん。本書全体に通底している態度として、何かを設計することはできないけど可能性を高めていくことはできる、ということ、そしてそれをどれだけ信じるか、があると思うんだけど、マンズィーニさんのメールインタビューでも、制度的なイノベーションはソーシャルイノベーションを促進はすれど、必ずボトムアップでの活動が達成されてないと成功には至らない、と語られていたよね。そういう意味で言うと、ぼくのなかでこの約3年で大きく変わったところは、原風景みたいなものを3人で共有することができたという点かな。原風景というのは、『産まみ(む)めも』のプロジェクトを例にすると、自分たちも当事者の一人、「産む」にまつわるもやもやを抱えている一人として関わりながらも、でも実際に不妊治療や養子縁組を考えている人のもやもやとはちょっと違うなと自他を分けてたところがあったのが、言葉を交わしていくなかで、つながりあえる感覚が立ち上がってきたり、一緒にワークショップをやったりするなかでいまの当たり前とは違う世界線を想像しうるということを、肌で実感する経験を3人で持てた。それは、システムの変化にだってつながりうる、そう信じられるようになった。それがないと、「イノベーション」なんて言葉も、ただの希薄なカタカナ言葉になってしまう。

石塚 本を書くことでそのあたりの概念をモデリングしていけたから、「公共とデザイン」としての活動と書いている言葉がつながった感覚があったよね。

富樫 そう、これまでは社会問題についても、それらは「解決しなくてはいけない問題」というある種義務的なものとして捉えていたのが、対話のなかで自分と社会とのつながりをなるべく言葉にして表現していこう、それを大事にしようという姿勢に変わった。自分自身と一致したかたちでプロジェクトや仕事に取り組めようになってきたような気がします。

川地 デザインは問題解決のみに閉じないとは思っているけど、そう言われ続けてきたように、デザインと問題は切り離せないところはやはりある。そのときに、自分自身はその問題の一部ではないという前提になってしまっている、という問題がある。ぼくがやっているもうひとつの法人「Deep Care Lab」の「ケア」っていう言葉には、葛藤と向き合い続けるというニュアンスが内包されていて、自身が問題とともに生きるということ。その終わりないプロジェクトが「ライフプロジェクト」であり、それは結果的にソーシャルイノベーションに発展していくものであるという位置づけで本書のなかでも語っているけど、自分にとってDeep Care Labは、問題とともにあるための、自分が変わり続けるための装置として捉えています。

──この本をどう読んでもらいたいですか?

富樫 問題を自分と切り離さず、共に生きて、社会に対して手触りを持つということが、暮らしや仕事などさまざまな場面で生まれるきっかけになったらいいですね。

川地 社会と自身のプロジェクトがつながっている感覚を持てているかどうかが大事というのは、個人の生きづらさに関わることだけじゃなくて、これまでのやり方が通用しない、評価基準もない、いわゆる「厄介な問題」が溢れる現代において不可欠な認識なんじゃないかと思いますね。

石塚 以前後輩に「未来あると感じられる?」と聞いたとき、「いや、感じられるわけないじゃないですか」と即答されたことがあるんだけど、自分たちの世代で閉塞感を感じないで生きている人はいないと思うし、でもそれってつらすぎるなって思うし。この本を読んで、ひとりの衝動から始まったライフプロジェクトから生活や社会は「変えられるんだ」とちょっとでも思ってもらえたらいいな。

富樫 そうだね。そして、そうした活動をシステムに埋め込むことができるかが次のステップになるよね。ぼくたちの活動も同様ですけど。

石塚 うん。個人の可能性が広がっていく過程とか、手を取り合っていけるということを、信じたいし、信じて活動を続けている。けれど、手放しですべてを信じられるかというとそれは難しくて、たとえば人の悪意とかにどう立ち向かうかが課題だなと個人的には最近感じている。悪意を向けられるのはみんな苦しいし。

川地 立ち向かうというスタンス自体が対立を生んでいるという難しさ、悩ましさはあるよね。そういう悪意みたいなものを持っている人がいるのがふつうの社会だし。

富樫 だからこそ、共同体・企業・行政といったさまざまな立場に主体がいることが重要になるよね。そのなかで失敗するものもあるけど、いろいろなレイヤーで振り返りが行われることで次につながるはずだし、それが、この本でも言っている民主主義のかたちなのかなって思う。

川地 あと、「社会」と言ったときのイメージもいろいろあって、社会の捉え自体が変わることも大事だと思う。この本でもシステムの変容みたいな大きな規模の話もしていて、それも当然社会なんだけど、たとえば家族に「働き方をこれまでとは変えて違うかたちにしてみようと思っているんだけど」と伝えて、自分の中から発露したものが他者にフィードバックされることでこれまでの関係性が変わる、みたいなレベルでの「社会が変わる」というのもある。そういう小さな実感値をいかに身近に育んでいけるか、それを忘れたくないなって思います。「ソーシャルイノベーション」って言うと大きく聞こえてしまうけど、福沢諭吉は「society」を「人間交際」って訳したように、交際とか付き合うという身近なニュアンスが大事で、それが「プロセスのイノベーション」と言えるし、関わる人とのあいだでこれまでとは違う関係性を築くことができなければ、そもそもソーシャルイノベーションにはならないんだと思います。

──とはいえ簡単にはいかないですよね。

石塚 近所の人と一緒に運営している「あだちシティコンポスト」の活動なんかは、草の根のコミュニティをつくるところからやってみようと活動してるけど、やっぱたいへんなことはたくさんあって、誰かの想いや支援がないと維持できないなぁと改めて思います。

川地 うん、マンズィーニさんが言うような、軽さに価値を与えるコミュニティという話、つまり出入りのしやすい共同体が重要なんだっていうのもわかるんだけど、なかなかね。

石塚 理想は、いろいろな関わり方があって、抜けたり入ったりできるのがいいのはわかってるんだけど、いざ本当に運営していると、そこめっちゃ難しいなと。

川地 どれだけ対話をしたとしても、その人自身のなかで衝動が生成され、これを引き受けていこう、となるかどうかはわからないからね。時間がかかるし、いつ芽が出るかもわからないし、まあ、出なくてもいい、ぐらいの手放せる態度を持つことの苦しさ。そういうことに向き合うことも含めての「問題とともにある」というのが、ライフプロジェクトのリアリティなんだろうな。

石塚 本に書いてあることだけ読むときれいに見えるかもしれないけど、「20人分の日程調整たいへんだな……」みたいなリアルな問題が出てくるから(笑)

富樫 「公共とデザイン」自体もめちゃくちゃ模索しながらやってるわけで、やってみてわかることもあるし、ひとつひとつ付き合ってやっていくしかないよね。

──ありがとうございます。では最後に、3人はそれぞれ次の一歩をどう踏み出していくのでしょうか?

富樫 自分の場合は、もうひとつやっている「issues」という法人でデジタルプラットフォームによって暮らしの困りごとをシステム的に解決していくという活動をやっていて、最初の頃はそうしたアプローチでうまくやれば、つまり良い仕組みをつくれば、いい感じに変わっていくんじゃないかって考えてたんだけど、それだけじゃ足りないなと「公共とデザイン」をやって思うようになった。対話や表現といった活動の両面を見ながら、単純な困りごと解決だけではない、もやもやの吐露やこうやって生きたいといった欲望を仕組みにつなげていけるといいなと考えています。

石塚 私は本を書きながら自分のあり方についてずっと考えていたことがあった。私は大学からデザインしかやってきてなくて、いまもデザイナーとしての仕事も続けているんだけど、自分が過去に携わっていたデザイナーの仕事では、自分を消すというか、透明になるというか、イタコ的な存在として取り組むみたいな感じがあるのね。「公共とデザイン」のプロジェクトでは、そうじゃないあり方、自分があって、そのうえでの活動になる、というのがチャレンジだなって思ってます。デザイン対象者の役割をかぶったデザイナーとして仕事をするときと、専門家のデザイナーである石塚理華として仕事をするときの違いって大きくって、やはりひとりの個人としてむき身で仕事をするときの怖さはある。のだけど、そことうまく折り合いつけながらやっていけるといいなと。

川地 この本のなかでも、関係を作り直すとか、他者と出逢い直すといった話を何度もしているんだけど、人だけじゃなくて、動物でも虫でも植物でも石ころでも何でもいいんだけど、もっといろいろなものごととか存在と、特別な関係を結んでいきたいなって思ってます。そういうのを増やしていくことが自分にとって救いになる。でもまだ道具として見てしまうところがあるので。そういった関係性が促されるような環境づくりをがんばっていきたいなと思ってます。あと、自分のあり方に関わる部分としては、もっと自我をなくしていきたいなと思っていて。さっき言った、芽が出なくていいぐらいの手放せる感覚のこともそうだし、もっと自分の鎧を外したい。自己をなくす、でもなくせない、ということにも付き合い続けないとなと考えています。

石塚 さっき私が言った「透明になる」という話と同じ?

川地 いや、同じではなくない?

石塚 なんというか、自分がないと滲ませられないし、透明になっていることがある意味鎧をかぶっているということなんだよ。鎧を脱ぐことはできるかもしれないけど、でも自分じゃなくなることはできない、そういう話じゃない? 違うかな。

川地 うーん……わかんないな。そうなのかな。

著者近影

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