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ともぐい/感想

第170回直木賞受賞作品『ともぐい』著者/河﨑秋子

1979年生まれ。北海学園大学経済学部卒業後、ニュージーランドで1年間緬羊飼育を学ぶ。帰国後、酪農を営む実家で従業員と羊飼いをしながら小説執筆を開始。2012年「東陬遺事(とうすういじ)」で第46回北海道新聞文学賞(創作・評論部門)、14年『颶風の王(ぐふうのおう)』で三浦綾子文学賞、16年同作でJRA賞馬事文化賞を受賞。19年十勝管内に転居し、以後は執筆に専念。

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実家は酪農、綿羊飼育を学び羊飼いをしながら小説執筆…という経歴を読んで、以前読んだジェイムス・リーバンクスの「羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季」をなんとなく思い出した。

当時リーバンクスの書籍を広げて感じたのは、イギリスの湖水地方という訪れたこともない土地に広がる草原やそこに展開される折々の四季。表紙に張り付けられた写真が魅せる羊飼いという特殊な職業。どこか浮世離れした世界に思い馳せながら読んだものだった。

一転して、こちらの「ともぐい」表紙は赤黒く、タイトルもおどろおどろしい。

明治後期の北海道の山で、猟師というより獣そのものの嗅覚で獲物と対峙する男、熊爪。図らずも我が領分を侵した穴持たずの熊、蠱惑的な盲目の少女、ロシアとの戦争に向かってきな臭さを漂わせる時代の変化……すべてが運命を狂わせてゆく。人間、そして獣たちの業と悲哀が心を揺さぶる、河﨑流動物文学の最高到達点!!

ともぐい
河崎 秋子

実は昨年の12月の半ば、発表された候補作の数ある中から気になるものを読もうと思い手に取ったのがこの「ともぐい」との出会いだった。さらっとした雰囲気の中にこの一冊だけがどこか異様な空気をまとっているように感じたのが興味を惹かれたきっかけだった。

時は明治、北海道東部の手つかずの山。零下三十度の冷気の中、熊爪という男が村田銃を鹿に向かって構えるシーンから話は始まる・・・

この猟師の男はしばしば獣と同じ嗅覚や視点を持ち、同じ匂いを放って生きるという目的のための狩りに相棒の犬を連れて出掛ける。己の構えた小屋で獣の皮を被って夜を超え、獲った獲物を人里で売っては多少の金に換えて酒や食べ物を調達し、また山に戻る生活だ。物語の描写から、この熊爪という男の感覚は獣のそれ同様に研ぎ澄まされており、きっと人間というよりは熊に近いものなんだろうと頷ける。



以降は読んだ人向け。


熊爪は野獣だった-ノケモノ(仲間外れ)-


追っていた穴持たずに腰の骨をやられ、仕留め損ねた。その上赤毛に穴持たずを仕留められてしまったとき、熊爪は自問自答している。

怒りの火は消えていた。それは、自分よりも怒りに満ちていた穴持たずと、それを仕留めた赤毛が持ち去っていってしまった。
「俺は、熊か」
岩場で痛む全身を伸ばし、熊爪は呟いた。
「熊でねぇのか。人間なのか」
空虚な問いに自分で答えを出せるはずもなく、熊爪は月が天頂に至るまで傷ついた心身を晒し続けていた。

ー俺、は、なんだ。
規則的に張られた天井板を眺めながら、熊爪は声にならない声を吐き出した。
ー熊にも、里の人間にもなれず、猟師でいられない俺は、いま、何者だ。
瞼を閉じる。瞼に光を感じる柔らかい暗闇の中で、熊爪は考えた。あの赤毛は山に君臨しているのだろうか。熊爪の空想は場所を越えて勝手に広がっていく。

熊爪は限りなく熊だった。生きるために狩る、そこに微塵も罪悪感は無かった。狩られた肉は山の獣に啄まれ、舐めとられて骨となり地に帰る。それは獣の世界ではごく自然なことであり、その繰り返しをただ生きることに負傷するまで熊爪は疑問すら抱かなかったのだろう。

しかし以前の様に狩る、という生命の営みが困難になった時熊爪は人となった。否、人になろうとした、といった方がニュアンスが近いかもしれない。良輔に炭鉱で働かないかと打診され、その提案を怒りのまま却下し、投げつけなかった熊爪には理性を感じられた。

中身が死にかけ皮だけが残った-ハンパモン(≠仲間)-

迷いから目をそらすように心は打倒赤毛に向かっていく。雪が降り続く中新雪に知らされる残り少ない時間をかけて赤毛を追い、そして討った。撃たれた赤毛が最後の力を振り絞り、鋭い爪を振り下ろす瞬間熊爪は逃げなかった。互いに全力で戦い、悔いなくそこで命を終えるつもりでいた。しかしそれは空振りに終わり、あろうことか熊爪は生き残る。そして赤毛の死を前に仕留めた喜びが湧かない自分を省み、なぜこんなことをしたのかと自問した。

熊爪はいつものように赤毛を解体しなかった。熊でも人間でもない「はんぱもん」として生きるしかないことを受容する過程はとてつもなく苦痛だっただろう。はんぱもん同士、その片割れとして陽子を貰い受けに白糠の町へ降りる。

人にも熊にもなれなかったはんぱもんだがそれでいいと言った熊爪に『今のあんたになら』と良輔の子どもを身ごもっていた陽子はついていった。狭い小屋に片割れと、その赤ん坊の三人の暮らしが始まる。

かつて猟師として山に入った際は、何を撃つか、何を得たいか、そういった確かな対象があった。そこには抑えていようとも人間としての欲の気配が拭いきれずにあった。
しかし今は違う。肉や毛皮を売ることを考えなくなった。熊爪の欲は食うための、より単純なものになり、その気配の変化が山の獣の感覚を鈍らせる。山の生き物とのかつての距離との違いに、熊爪自身も戸惑い、また、納得もした。
ーなんだか、楽だ。

生活に馴染んではいったものの、熊爪は渡る沢をひとつ間違えたような気持ちでいた。望む通りに生きているのにも関わらず、どうしようもなく居心地の悪さを感じるのだった。

獣として終える-熊・トモグイ-

赤子の細い首に触れ、殺すのかと陽子に問われた熊爪。雄熊は雌に子がいた場合まぐわうのに邪魔なため殺す、と話す。殺された子は自分の子かもしれないのにと陽子は悲しんだが、熊爪は「悲しくはねぇ、と思う」と熊の感情についてどこか確信を得ていた。見ないことを選んでいた陽子が熊爪が兎の内臓を抜く様を見るなり、熊爪の子を孕んだと告げる。自身を熊に似た存在だと自覚した熊爪はその夜思うがままに陽子を組み伏せた。

だからその夜も熊爪は陽子を思うさま抱いた。陽子は子がだめになるかもしれないから困る、と言ったが、知ったことではない。良輔の子が腹にいた時は言われるままに堪えたが、自分の子ならば良いではないか。きっと耐えられるし、耐えられなければそれまでだ、という感覚があった。腹の子を自分の身体の延長と見なし、熊爪は甘えきっていた。

熊爪が熊ならば陽子は雌熊だったのだろう、母熊として子を守り通すため熊爪に刃を突き立てた。「もうあんたはいなくていいって、本当は分かってたんでしょう」と刃先で喉元をつついて言った陽子に熊爪は静かに悟りを得た。もう十分に生き果たし、殺されて終える。その時が今なのだと。

はんぱもんを覚悟した人間としての熊爪でなく、そこにいたのは雄熊としての獣の熊爪だった。殺されてようやく死ねるのだろうからと刃を突き立てた陽子は、獣として生きたがった熊爪を尊重したのかもしれない。はたまた、ただ子を守ろうとした母親の防衛本能なのかもしれない。熊爪の子を孕んで目を見開いたのは、一種の賭けだったのかもしれない。腹の子を脅かすマネを熊爪が控えていれば、同じはんぱもんとして四人一家を築いたのかもしれない。

住み慣れた小屋で愛犬にお前は行けと指示し、熊爪は静かに絶命した。人の姿をしたその獣は、最後は熊として一生を終えたのだろう。手に取った時には帯にある「新たな熊文学」の意味が分からなかったが、そういうことだったのだろうと腑に落ちた。


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