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氷の致死量/感想

先日また面白そうな本を以下記事に拝見した。

「死刑にいたる病」は二年前の初夏の頃読み終えた手に汗握る一冊だったことは記憶にそう古くない。シリアルキラーの歪んだ世界をその蠱惑的な眼差しで語られると、まるで吸い込まれるように魅せられてしまうのが恐ろしい一冊だった。

個人的に同じ著者の作品で手に取るのはこれが2作目になる。先日対悪魔系映画を観た(また別途語りたい)せいで「聖なる」というニュアンスに惹かれたのか、手に取らずにはいられないと思ったそのあらすじはこうだ。

私立中学に赴任した教師の鹿原十和子は、自分に似ていたという教師・戸川更紗が14年前、殺害された事件に興味をもつ。更紗は自分と同じ無性愛者ではと。一方、街では殺人鬼・八木沼武史が“ママ”を解体し、その臓物に抱かれていた。更紗に異常に執着する彼の次の獲物とは……殺人鬼に聖母と慕われた教師は、惨殺の運命を逃れられるのか?『死刑にいたる病』の著者が放つ、傑作シリアルキラー・サスペンス! 解説/大矢博子

被害者を解体し、その臓物に抱かれる殺人鬼。
彼が慕う“聖母”とは?


『死刑にいたる病』の著者が放つ
新たなるサイコ・サスペンスの金字塔

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このシリアルキラーはママと称した相手を殺害後解体し、あまつさえその臓物に抱かれているのだという…ネクロフィリアなのだろうか。

様々な憶測が飛び交いそうになる前に頁を捲ったが、引き込まれるようにざっと読んでしまった。



以降は読んだ人向け。


舞台は神父が在籍し生徒や教員間でも「ごきげんよう」とあいさつを交わすカトリックの私立中学聖ヨアキㇺ学院。新しく赴任した英語教師の鹿原十和子がかつてこの学院で殺害された戸川更紗にあまりにも似ている、ということから歯車が回り始める。

聖母、カトリック、神父、ジェンダーマイノリティ、シノシンセンスイ…
当初はどれもが宗教と性にまつわる話題の様に思えた。

・聖職者の性加害問題
・カトリックというものの見方
・悪質な宗教団体またその2世問題

といった話題が脳裏をよぎる。この話の大枠は宗教問題について照らしているのだろうか、六割ぐらいを読み終えたところでなんとなくそんな風に思っていた。

物語は鹿原と八木沼の2つの視点で語られる。八木沼が放ついびつさは相当なもので、切り取った臓器が破損して漏れ出た内容物からは悪臭が漂っているにも関わらずそれをもろともしない。ましてやそれら生暖かい臓物と赤い海の上に横たわり、胎児の恰好をとると血で汚れた親指をしゃぶりながら「ママ、ママ…」と余韻に浸っている。齢28の陰湿で口下手、いかにもな男だ。

対する鹿原は生まれてこの方優等生を絵にした様な人柄。同じく教師だったという母の存在は大きいが、実はアセクシュアルであることや夫とうまくいっておらず離婚という運びとなったことなどは総じて「一般的なよくあること」としての描写にすぎず、歪んだ家庭環境に育った八木沼だけが『いびつな殺人鬼』として目立っているのだろうと思っていた。

しかしどうも違うようだ。そう思い始めたのは、八木沼が戸川の事件を「殺された」と語り始めたあたりから。八木沼のターゲットは誰も戸川に似ておらず、若くなく美しくもない、等しく愚かで貧しく惨めな境遇に甘んじている女たちだった。いびつな殺人鬼は戸川を慕いこそすれ殺してはいない。

一連の全てを彼の犯行とすっかり思い込んでいたが、被害者全員がママと呼ばれていたからとてその中身は同じではないことが分かる。ハガル=サラ・コンプレックスという言葉があるようだが、これは世の女性を無意識に聖女か肉欲の対象かに別する性的劣等感を意味するらしい。八木沼はこの概念をこそ知らないが、内から沸き上がる衝動を大いなるものから授かった使命の様に捉えている。また以前拓朗は十和子に

男性を求めない女性というのは、ある種の男にとって脅威なんだそうです。そしてべつのある種の男にとっては、救いらしい。前者は性依存気味の男性で、自分に見向きしない女性に対し反感と攻撃欲を抱きます。後者は逆に性嫌悪持ちか未成熟な男性です。彼らは性の匂いのしない女性に安らぎを覚え、聖母に対するような憧憬を寄せる

と語り、カトリックに帰依し奉仕者となってからの元妻はどちらのタイプの男をも惹きつけたとこぼしていた。戸川更紗の中に聖母を見ていた八木沼とはまた別の誰かが存在する可能性がある。

ストーリーにはその端々に鹿原とその母親、戸川とその母親、八木沼とその母親、市川美寿々とその母親、と各重要人物の家庭環境や母子の関係性についての描写がなされている。「シノシセンスイ」や「あの家」、「いかれたばばあ達」の存在もいずれある人物の家庭環境についてを語る。

それは親の敷いたレールを歩き続けることに対する恐怖や違和感を抱えた者たち、そして親に見向きもされずに愛情に飢えた幼少期から今までを過ごすという悲惨な体験をしてきた者たち、と詳細には異なれど、親と子の関係性が及ぼす影響についてを浮き彫りにするという大きな括りでは一致している。子は親を選べない。また歪んだ家庭環境を子どもながらにおかしいと感じたとしても、その時は成す術がないのである。

八木沼は歴代のママ達とのプレイ中にはたっぷりと甘え、安心して駄々をこねた。排せつ物の処理さえもさせて、恥じることもなかった。そこには実母から得られなかった絶対傍にいるという安心感や無条件の愛をママに似た女たちに求める愛に飢えた男児がいた。『先生を流産させる会』は2009年愛知県の中学校で起こった実際の事件だが、企てた複数の男子生徒十数名も妊娠中の担任に同じように聖母像を求めていたのだろう。

そういう視点で見れば、鹿原も戸川も母親に自分の選択を静かに見守られる、という無条件の愛を求めていたのかもしれない。これは聖なる母という存在をめぐる子ども達の(一部湾曲した)葛藤と苦悩を描いた小説なのかもしれない、と思うに至った。

八木沼は命を粗末にした。絞殺し腹を捌いて内臓を切り出して眺め、しゃぶり、母体回帰願望を思う存分その都度満たした。たとえその女たちが離婚した経産婦で親族と疎遠、夫や子とも音信不通で風俗で生計を立てる必要があり、失踪したとて誰もあやしまない様な存在であったとて、それは重大な罪であることに変わりはない。しかし新たに振って湧いた使命には娘を守る、というものがあった。ママではないにせよ、どんな子であれ無条件に守られるべきであるという姿勢は一貫していたのだ。それは皮肉にも八木沼のよき父となり得たかもしれない未来を想像させた。

解説でこれは十和子自身の成長物語でもある、と記載があったように、本人は最も恐れていた実の母に本当のことを打ち明けるという体験を最終的には叶える。与えられた〈普通〉を生きるのをやめ、〈自分〉を生き始めた瞬間だった。またそれは親の敷いたレールから降り、自分の足で自分の道を歩くということは可能であるという希望を読者に伝えている様にも見えた。

十和子はASMAで名乗っていたICEというHNの変更を申し出るが、変更後の名称については本著では語られておらず自由に想像が出来る形となっている。

なんだろう、何にも変幻自在で流れ流される『水(Water)』、だろうか。


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