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果たして母は幸せだったのか?

昨日のnoteに私に「母親が家事や子供の送迎を全部やって、夫を休ませてあげなくてはいけない」とか「母親は自分の事は最小限に、子どもを満たしてあげなくてはいけない」とか言う設定があるのは、母がそのようにしてくれて私が幸せだったからだ、と書きました。

でも、子どもである私は幸せだったけど、果たして母は幸せだったのか?と今は考えています。

昔、母とお酒を飲んでいた時に「もう人のためにやりすぎて、自分がどういう人間だったのか分からなくなってしまった」と言われたことがあります。

子どもの私から見ていると、母は編み物やタティングレースなどの手芸に没頭して、父や仲間とゴルフをし、お昼寝もして、夜中に欧州サッカーやF1を観戦をしたり、好きなことをやっているように見えてたんですよね。

朝仕事に出て、昼過ぎには帰ってきてしまう私の夫とは違って、父はバブル全盛期の「24時間働けますか」世代の人なので、家は母の城のようで自由にしていると思っていたんです。

でも自分が大人になってみると、物理的には好きなことをやっているように見えた母が、自分を押し殺して必要以上に他人の世話を焼いていて、いつも人の事を思って買い物をしたり、物事を決めたり…、ちょっと「母親すぎる」と感じるようになりました。

で、上の言葉です。

父も私達も母の愛の大きさの上にあぐらをかいて「母がやってくれるのが当たり前」と受け取っていたように思います。

母は、それが自分の生きた時代の、自分が選んだ人生と割り切っているようですが、「自分が分からなくなった」状態が幸せだとは私には思えないんです。

「子どもの欲を満たしたい」「子育てに没頭したい」「家事を完璧にこなしたい」「手の込んだ料理を作りたい」などと思う反面、私は「自分が分からない」という状態は嫌で、自分の時間を毎日確保したいとも思っています。

あぁ、悩ましい。

自分の中でバランスが取れることはないんでしょうね。

子どもに寄ってみたり、仕事に寄ってみたり、自分に寄ってみたり、ぐるぐるゆらゆらしています。

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