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詩 切手と希望

子どもが書いた手紙、斜めになった文章があった

子どもが頭を体を斜めに倒し何がほしいか悩む、背丈の大きな両親の抱える気持ちを覗きこむ

そうやって手紙を書いて送る

僕は、人生は失敗だらけ逃げて反れてしまったかもしれない。

そんな姿は見せれないと離れ離れになるやつもいる。

手紙をもらっても、手紙にしても重圧がすごいからさ、どこかの手紙から剥がれたか、それとも買ってきてた切手かわからないが、そういう切手にこの想いを乗せたい。

切手は最初に相手のことを考えて、そしてその手紙を完結させるもの

だから、どうでも良いような切手があれば、まだ続く想いとか物語は続くと思えるんだ。

だけど、僕の切手は雨の中にある

僕は切手ばかり見て、切手みたいに身軽になることが嬉しかった。

子どもの葉書に書かれた文字は少し斜めになっていたけど、それを心理学とか何かの理論に当てはめたら辛いものになるかもしれない

だけど、手紙は、斜めに見上げるものじゃないし、真っ直ぐ見つめるものだ。

自分の想いとか気持ちを斜めになんてきっと表現できない。

子どもは、夢や喜びとか楽しみとかあると、切手より先に言葉が、先に声が、先に虹が浮かぶ。

高齢者は、誰かが怒っても笑う。そして自分の想いを閉じ込めて、斜めに見ている人はいるが、誰かがいると真っ直ぐな気持ちを話してくれる

実習の際に、高齢者施設を斜めに見ると、きっと、思いやりとか優しさとか浮かぶと思う。それは文章を考えているからだ。作っているからだ。

だけど、真っ直ぐ見ると、先に笑顔や、喜びの声や、その人が元気であれば良いとの言葉がでる。

自分の気持ちを斜めに見るなんて最初からできない。

だからこそ、斜めに見た景色が出てくる。

高齢者が通うカフェや、高齢者が俳句を考え、子どもが歌の意味を考える瞬間が生まれたりする。

誰かと共ににいないと、斜めに体を倒したり、斜めの言葉、文章は出てこないのかもしれない。

一つ違うことは、お年寄りは切手を大切にする。それは、綺麗な景色も、人の存在には勝てないことを知る。

切手に人の顔を浮かべる。遠くに住む人を覗きこむ

大人は自分を作りすぎて、斜めに向いていいるではなく、傾いている。

そして身軽になりたがる。嘘で固める。嘘で切手を貼り付ける。そうやって希望を持つ。だけど、その切手や希望が必要な人もたくさんいる。