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初めて書いた新聞記事は、お蔵入りだった。

もう20年ほど前の話だが、某スポーツ新聞(中四国地方版)で記事を書かせてもらっていたことがある。スポーツ新聞といっても、書くジャンルは「スポーツ」でも「芸能」でもなく、「観光」だった。

一緒に仕事をする人、というか、私を「使ってくれていた」人は、その新聞社で長年記者を務めた大林さんという方だった。ちょうど定年退職(60歳)されたところで、フリーのライターとしてその新聞社の仕事を続けられていた。私の両親と同世代の大ベテラン。最初にお会いした時、中途半端に「少し年上」の人よりも、なんだか安心できたことを覚えている。

取材のやり方は2パターン。
1つはイベント会社が組んでくれたプレスツアーに参加するというもの。各新聞社から記者が参加し、イベント会社に誘導されて取材ツアーに行く。いろんな観光スポットやホテル、飲食店などを案内してくれるので、各社で必要なものを取材し記事にする。これはほとんどが1泊2日の泊まりがけだった。
もう1つは、大林さんの車で取材先へ行き、単独で取材をするというもの。こちらは観光スポットというよりは観光地で働く方のインタビューが多かった。

私はもともと「旅ライター」になりたかったので、人の紹介でこの仕事を受けた時はとても嬉しかった。それまでやっていた「旅」関連の案件は『るるぶ』や『マップルマガジン』などの旅行情報誌しかなかったので、「新聞で書ける」ということにも興奮していた。

しかし、最初の記事で私は打ちのめされることになる。

記念すべき第1回目の取材は、岡山県の「桃狩り」だった。旬の桃を求めて多くの人が桃狩りに訪れる。それを取材して紹介記事にするということだった。
大林さんと一緒に取材に行き、桃農園の方に話を聞く。それまでも別媒体で取材は数をこなしていたので、それなりに話は聞けた。
大林さんが「桃狩りに来ているお客さんをつかまえて話を聞いて」と言うので、2人ほどに話を聞いた。それも問題なかったと思う。

帰って早速記事を書いた。600文字くらいだったし、すぐにできて大林さんに送った。
その後の衝撃が大きすぎて、送った時の気持ちは覚えていないが、おそらく「まあ、うまく書けたんじゃないかな」くらいの自信はあったと思う。

それが、送ってすぐに大林さんから電話がかかってきた。電話に出るとひと言目に「あれはあかん」と言われた。

「あんたは新聞記事のことを何もわかってない。これは新聞記事とは違う。雑誌の書き方や。新聞は報道やから、数字やデータに基づいた事実が必要で、あんたの感想なんていらん。あんな記事じゃ話にならんし、掲載できないで。今回は私が書き直すから、それ読んで勉強して」

そういう意味のことをまくしたてられて、電話を切られた。
携帯電話を手に持ったまま、呆然とした。
自分の記事が初めて「お蔵入り」になったのだ。全否定されたのだ。
こんなに悔しいことがあるだろうか。

ショックだったが、落ち込んだところで仕方がない。もう数分後には「じゃあ、新聞記事の書き方ってどんなのよ?知りたい!勉強したい!書けるようになりたい!」と強く思っていた。

その後、送られてきた大林さんの記事を読んで、「そうか、これが新聞記事の書き方なのか」と理解した。
自分が書いた記事と比較できるから、何が違うのか明確だった。確かに私の記事は「雑誌」のようで、大林さんの記事は扱っている題材が「観光」とはいえ、事実に基づいた「報道」だった。新聞記事というのは、ただ「文章が書ける」というだけではダメなのだとようやくわかった。

同時に、この仕事はこれで終わったかなと思った。なにせ、記事がお蔵入りになったのだ。「あんなライター使えんわ!」と見捨てられても仕方がない。そういう厳しさが大林さんにはあるようにも見えていた。
だから、それから数日後、大林さんから次の取材の連絡を受けた時にはホッとした。まだ挽回のチャンスは残されていたのだ!

次の取材は観光地で働く人のインタビュー記事だった。「人」のインタビュー記事はそれまでもいろんな媒体で書いていたので、大丈夫だろうと思っていたら、今度は特に何も言われることなく掲載となった。

桃の記事がお蔵入りになったので、結局これが私の新聞デビュー記事だ。

でも、最後の一文が編集部で変えられていたのがショックだった。
なんだか文法的におかしな文になっている……

とにかくボツにならなかっただけでありがたかった。クビがつながったと思った。
この「おいでんせぇ~岡山」のコーナーは、その後も何度か書かせていただいたが、嬉しいのは記名入りだったことだ。自分の名前が活字になることには、やはり特別な感情がある。

そして翌月には、初めてのプレスツアーにも参加した。行先は徳島県で、祖谷のかずら橋や秘境の温泉宿、剣山などをまわることになっていた。

私は気合が入っていた。
インタビュー記事はクリアしたものの、肝心の「観光」記事はまだOKをもらっていない。もし次も「こんなの新聞記事じゃない」と言われてボツになったら、本当に「次」はないだろう。今回が勝負だ。
そう思って1泊2日のプレスツアーに挑んだ。

取材当日――。
剣山はリフトで行けるところまで行き、そこから頂上までは山道を40分ほど歩くことになる。案内人の後について、各新聞社の記者たちがぞろぞろと山道を歩いていた。
私はまずは取材をしっかりやろうと思った。とにかく情報だ。正しい情報をたくさん集めなければ新聞記事など書けない。
そう思い、案内人にぴったりついて剣山を登った。片手にはメモ、片手にはペン。40分間、頂上までの山道を登りながら、ずっと話を聞き、メモし続けた。それが、その時の私にできる精一杯のことだったのだ。

大林さんと登山の途中では一度も話すことはなかった。
ただ、登山取材を終え、顔を合わせると、これまで見せたこともないような優しい笑顔でこう言ってくれた。
「あんた、偉かったな。大勢の記者がおったのに、あんただけやで、山道登りながら案内の人にぴったりくっついていったのは。ずっとメモとりながら登ってたな。すごいわ、感心した」

うわーーーーん!!
と泣きたかったが、それは心の中でだけ。
嬉しかった。とにかく嬉しかった。やっとスタートラインに立てたように思えた。ここからだ。ちゃんと良い記事を書かなくては。なんとしても挽回するのだ!

それから数日後、私の剣山の記事が掲載された。今度はボツじゃなかった。

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▲実際の記事

写真はいつも大林さんが撮ってくれるのだが、掲載された記事の写真をよく見ると、自分がしっかり写っていたのでびっくりした。
私が案内の人の後ろにぴったりとつき、メモをとっていた。

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▲掲載写真をクローズアップ

大林さんは写真を撮りながら、これを見てくれていたんだなと思った。
もしかしたら、私へのご褒美のつもりで、この写真を使ってくれたのかもしれない――。
今でもこの記事は私の宝物だ。

このことをきっかけに、大林さんは私をライターとして認めてくれたようだった。関係性も良くなり、ご家族のことや昔の取材の話などもいろいろしてくださるようになった。
取材は月に1回程度だったが、この仕事はとても楽しかったし、できればずっと続けていきたいと思っていた。大林さんからもっといろんなことを学ばせてもらいたかった。

だが、1~2年経つと、新聞社の事情で中四国版独自の取材記事はなくなり、全国版と統一になり(おそらく経費の問題だろう)、突然この仕事は終わった。やっと「新聞記事」の書き方がわかってきて面白くなってきたところだったので、本当に残念だった。

仕事の終了と同時に大林さんとも会うことはなくなった。ただ、あれから20年、ずっと年賀状のやりとりだけは続けている。

今年、大林さんへの年賀状に「noteのエッセイコンテストでグランプリをとりました」と報告し、記事を見られるようにQRコードを印刷して送った。
すると、元旦早々にメールが来た。

「エッセイコンテストでグランプリ受賞おめでとう。
きき酒師の資格を取り書いたエッセイは面白くて良かったです。芥川賞、直木賞目指すフリーライターになれるかも!?岡山の夕べで日本酒もらいましたね!なつかしい。大林」

すぐに読んでくれて、こうやってメールをくれたことが、心に沁みた。メールにあった「日本酒をもらった日」のことも思い出した。私よりはるかにたくさんの経験をされているはずなのに、私と共に取材した日のことを覚えてくださっているのだと思うと嬉しかった。

また、毎年の年賀状で、大林さんが今もフリーの記者としてゴルフの記事を書いていたことは知っていたが、私はゴルフはやらないしあまり興味もないので、記事を読ませていただいたことはなかった。
でも、今回のメールのやりとりで、大林さんの最近の記事を知り、読ませていただくことができた。

松山英樹選手が高校生の頃から取材をされているとのことで、愛情のこもった素敵な記事だった。
もう1つびっくりしたのは、大林さんが80歳になっていたことだ。
私が新聞の仕事をさせてもらっていたのが20年前なのだから、冷静に考えれば、そりゃそうなのだが、80歳になっても現役ライターで取材記事を書かれていることに、ただただ感服した。すごいなぁ、やっぱり。

私はライターになって25年経つが、自分の書いたものがボツになったのは、後にも先にも、あの「桃」の記事だけ。
あの時の大林さんの厳しさが私を育ててくれたと思う。「食らいつく取材」を学ばせてくれたと思う。

それに、私はずっとフリーランスだから、「先輩」や「上司」がいない。
だから、自分の心の中では大林さんのことを唯一の「上司」だと思っている。まだ若かった私をライターとして1つ上へ引き上げてくれた人だから。

お仕事を一緒にさせてもらったのはわずか1~2年のことだし、今は年賀状のお付き合いしかない。
それでも、私が「嬉しいことがあった」と報告すれば、すぐにメールをくれる人なのだ。今回、しみじみとその優しさを噛みしめ、久しぶりに昔の新聞記事を取り出して、思い出を書いてみた。

ありがとう、大林さん。

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