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カレル・チャペックの「園芸家12ヶ月」を今風に讃える

カレル・チャペック(チェコ語: Karel Čapek、1890年1月9日 - 1938年12月25日)は、チェコの作家、劇作家、ジャーナリスト。兄は、ナチス・ドイツの強制収容所で死んだ画家・作家のヨゼフ・チャペック。
(カレル・チャペック 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

■園芸好きなら必読の園芸家あるあるエッセイ

 チェコの作家カレル・チャペックの「園芸家12ヶ月」は、園芸好きであればあるほどユーモラスでマニアックな視点に共感し笑わずにはいられない。
 私は園芸に没頭してから読んだが、読んでいて「この人は何故こんなに私のことを知っているんだろう」と自分の事を書かれているような気が何度もして挙動不審になった。そのくらい共感した。園芸好きの思考回路は世界共通で、年代も性別も関係ないのかもしれない。

 この作品は「何よりも自分が好きなことを語っている時が一番楽しい!」という著者のテンションがビンビン伝わってくるので、園芸に興味がない人にもおすすめしたい。

(カレルチャペックは紅茶店の店名にもなっている。彼は「ロボット」という言葉の生みの親でもある)

 近年主語が大きい文章は批判されがちだがこの作品では「われわれ園芸家は〜」とあえて主語を大きくすることでつい「そんなことはないだろう」とツッコミを入れたくなるユーモラスな雰囲気を醸し出している。

 単に園芸の話だけではなく、園芸好きの文章から人間の人生、はては生命の、生きることの尊さとありがたみまで実感してしまうのは、彼が太平洋戦争の混乱の時代に生き、実兄をナチスの収容所で喪っていることも影響しているのだろう。

 特に芸術家が思想の制限を受けていた戦時中に自らの思想や表現、好きなことを徹底して貫くということは、なかなかできることではなかったに違いない。

特に共感した部分を一部抜粋する。

■園芸家は蝶よりもミミズになりたい生き物

 バラの花なんてものは、いわば、アマチュアのために存在しているのだ。園芸家のよろこびは、もっと深い、大地の胎内に根ざしているのだ。次の世に生まれ変わったら、園芸家は、花の香に酔う蝶なんかにはならない。窒素を含む、かおり高い、くろぐろとした、ありとあらゆる大地の珍味を求めて、土の中を這い回るミミズになるだろう

 私は現世(いま)でも充分、自分を土の下のダンゴムシだと思っている。

■さりげなくリア充をdisる

 四月(日本の気候では三月)、これこそ本格的な、恵まれた園芸家の月だ。恋びとたちは、かってに彼らの五月を謳歌するがいい。五月は単に草木が花を開くだけだ。
 ところが四月には、草木が芽を吹くのだ。うそは言わない。このシュートと、蕾と、芽は、自然界における最大の奇蹟だ。
-このことについては、これ以上もう、わたしはなんにも言わない。

 「青臭い若造にはまだこの魅力はわかるまい」という玄人然としたこの態度には好感すら持てる。
 私にとっても植物が芽吹くとか発根するとか発芽するとか、一見当たり前に見えるなんでもないことがとてつもない日々の喜びであり特筆すべき事象である。

■植物の愛しさへのクソデカ感情が半端ない

 これらのいわゆるミニチュア・カンパニュラやサキシフラガ(この後1ページ植物の名前が続く)…といったような、数え切れない沢山の、なんともいえない、きれいな、かわいらしい花を艱難辛苦(カンナンシンク)して育てたことのない者は、この他にも(以下略)、これらの植物をいちども栽培したことのない者は、この世の美しさについて語る資格はない。  
 その人間は、荒涼とした地球が(わずか数百万年前の)あるやさしいひとときに生み出した、この世でいちばん優美なものを見たことがないのだから

 上げられた花の名前は全部マニアックだが趣旨については激しく同意する。この本は1929年ごろに書かれたと推測されているが、彼は鋭い視点を持った作家だと言える。

 私が学生時代から興味を抱いている「カンブリア・ビッグバン」は「現在地球上にあるほとんどの生物は、先カンブリア紀の終わり(約6億年前)に最初の多細胞生物があらわれ、カンブリア紀(5億数千億年前)の1000万年という地球史からみて極めて短い間に突如として出そろった現象」から名付けられている。
 その原因はいまだに不明だが、生命が誕生することへの感動はまさにカレル・チャペックがかつて想像し、著述していたことと同じである。この瞬間にも、奇蹟は私たちの足もとで起きている。美しいものはすぐ近くにある。それなのに多くの人間はこの世は退屈で、どこかに楽しい、面白いことはないかと探し回っているように思える。

■大事なことなので二回言いました

 見たまえ、これらの花を。まったく女のようだ!じつにきれいで、みずみずしくて、いつまでも眺め飽きない-中略-(私は花のことを言っているのだ)そして残酷な言い方をするなら、自堕落女のように見える。ああ、なんということだろう、私のいとしい美人よ(私は花のことを言っているのだ

 推し植物への愛が強すぎて、つい擬人化してしまうことのは園芸家にはよくある(推測)。園芸品種の花や農作物に人名をつけることもよくあるが、人は思い入れのあるものほど擬人化してしまうのだろう。

■年をとることに前向きになれる言葉
 

よく聞きたまえ。死などというものは、けっして存在しないのだ。眠りさえも存在しないのだ。わたしたちはただ、一つの季節から季節に育つだけだ。わたしたちは、人生をあせってはならないのだ。人生は永遠なのだから。
われわれ園芸家は未来に生きているのだ。バラが咲くと、来年はもっときれいに咲くだろうと考える。10年たったら、この小さな唐檜が一本の木になるだろう、と。早くこの10年が経ってくれたら!50年後にはこのシラカンバがどんなになるか、見たい。
本物、いちばん肝心のものは、わたしたちの未来にある。新しい年を迎えるごとに高さとうつくしさがましていく。
ありがたいことに、わたしたちはまた一年 齢(とし)をとる。

人生は永遠」「未来に生きている」「ありがたいことにわたしたちはまた一年 齢(とし)をとる。

 なんと素晴らしい人生讃歌だろうか。

 歳をとると体力、記憶力が衰えることを実感する。老化を恐れることが増え、将来への不安も増す。永遠に若いままでいたいと思ってしまうことが誰でも一度はあるだろう。
 しかし植物はどうだろうか?人間よりも長生きする木々は、何百年、何千年と生きる。そしてそれぞれの時期に魅力がある。その未来に思いをはせる想像力もまた、人間固有の特長である。

 歳を重ねることはネガティブな面ばかりではないことを、カレル・チャペックと彼の愛する植物たちは教えてくれる。

■人間関係に疲れたころに興味を持つ

 カレル・チャペックも「園芸家はある程度おやじらしい年齢にならないとだめだ」というようなことを書いていたが、すぐに結果を求めるような若いころに、長期的なスパンで世話が必要な園芸に興味をもつ人間はなかなか少ない。私も20代のころは全く興味がなく、観葉植物も枯らしてしまう始末だった。

 しかし30歳をすぎ、管理職を経験し、対人関係の煩わしさが増え、自分自身に向き合うことが一番楽だと気づいてから園芸に没頭するようになった。園芸は何といっても、他人のせいにする必要がない。綺麗に咲かなければ、それは自分の管理不足と気候が原因である。自責的な人間ほど、植物に癒しを求めることに向いているのかもしれない。

 12月に嵐で荒れた庭を手入れして肺炎にかかって亡くなったカレル・チャペックのエピソードは、最期まで園芸家冥利に尽きる。私の植物に対する気持ち悪いほどの情熱もおそらく死ぬまで変わらないだろう。

 「園芸家12ヶ月」を読めば、もしかしたら貴方も植物を育てたくなるかもしれない。

 百円ショップでタネを買ってきて撒くだけでもいい。根が出てきて発芽する様子を見ているだけで、小さな生命の輝きに目をみはるかもしれない。
 私のようにもともと生物そのものが好きだった人間なら、そのまま挿し木や接ぎ木や盆栽に興味を示すかもしれない。私は自分が農学部に行かなかったことをひどく後悔している。
 私の現在の興味は組織培養と、遺伝子組み換えではない青バラの育種である。


#読書感想文 #園芸

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