深く息を吸うこと。#1
【ピース アロマインフィニティ】
毎年訪れる春先の長雨は常に私を狂わせる。
薄手の長袖でも暑いと感じるくらいのぬるい風と、傘を指しても斜めから入ってくる霧のような雨が、ただでさえ新生活で滅入っている私の精神をズタズタに引き裂いてくれる。
駆け足で電車に乗り込んだせいか、ただでさえ人の多くてむさ苦しい帰りの電車の中で、私は人一倍の汗をかいていた。
時刻は19時を少し過ぎる頃。下り方面を走るこの電車に途中駅から乗った私が座れる席なんて、もちろんあるはずがなかった。
私は何に追われているんだろう。
新生活といえど私に訪れる変化なんて微々たるものだった。それでも、特にこの時期は得体の知れぬ湿度を持った塊に追われているような、そんな感覚だけが強く残るのだ。今日のような生温い雨の日だと、余計に。
左手で湿ったつり革を掴みながら、曇った窓ガラスに写る自分の姿を見る。痴漢の冤罪に巻き込まれるのが面倒くさいから、右手はやや不自然な位置にポジションを取り、鞄を抱える姿勢を取っている。
一瞬で移り変わる曇り窓の向こうの世界に、何本かの満開の桜が過ぎ去ってゆくのがわかる。
お花見なんてここ数年行っていない。今の私にお花見を楽しめるような感性は無いし、誘うような人もいるはずがなかった。
大学をストレートで卒業した所まではよかった。ただ、私には夢がなかった。今の就職先だって、自分のやりたくないことをしなくて良いかもしれないからという理由だけで決めたようなものだ。
もちろん現実は、そう甘くない。私のやりたくないこととは、空気を読んで人と接するということと誰にでも出来る単純作業であったが、特別学歴の高くない当時新入りだった私がその2つを避けて社会を生きさせてもらえるはずがなかった。
横柄な態度をとる上司に(あぁ、人間ってこんなだったよな)と諦めの気持ちを抱く。そんなことを思う自分にも腹が立つ毎日。
プライドだけは人一倍あって、いつかは何か大きなことを成し遂げたいと大学3年生の頃から漠然と思い続けていたが、結局何の具体案も考えられないままこの年まで生きてしまっている気がする。
今の私の人生は、乗り物がブレーキを踏み始めてから完全に停止するまでの制動距離を慣性で生きているだけに過ぎない。そう思っている。
結局一度も席に座れること無く、私の降りるべき駅についた。
この駅の2つ前の駅では、先を走る快速電車との接続のため多くの人が降りる。今回もいくつかの空席が発生したが、あと2駅で降りるのにそんなんに座るのもダルいと思い、立ち続けていたのだ。
電車を降りると外は過ごしやすい気候になっていた。それどころかむしろ少し肌寒いくらいだ。雨は上がり、湿度を運んでいた生ぬるい風は冷たく乾燥していた。
たったそれだけのことなのに、電車を降りた私の心は先程よりも明らかに軽くなっていた。
改札を通り、南口に出た私は、つけていたマスクを下ろして深く息を吸った。乾いた喉を潤すように、乾いた風が体を満たした。
息を吸う度に、私の視界は鮮明になった。上空の雲に輪郭が見え、駅のロータリーにある小さな公園に咲く桜の白の中に、少しずつ桃色が見える。吐く息は未だに白い線を空に描く。吐く息の白が今までよりも薄いのは、やはり少しずつ暖かくなってきている証拠だろうと思う。
とにかく、私は深く息を吸って、吐いている間、先程まで抱えていた何かを完全に忘れていた。
ただ我を忘れて、吐く息の白さ、曇り空の白さ、桜の白さのような、世界のありとあらゆる白の機微がこの目にはっきりと写っていた。
(白って、200色以上あるんだ。。。)と不自然に口角が緩んでいた。
私は余計に家に帰りたくなった。誰もいない部屋にただいまと言いたくなった。普段はスーパーで済ませていた夕ご飯も、自分で作ってみたくなった。
よし、今日は缶詰を買おう。サイダーも買ってフルーツポンチを作ろう。料理をしたくなったとはいえ、卵焼きすらまともに作ったことがない私は悩んだ末にフルーツポンチを作って晴れやかな気持ちを手に入れようと企てたのだ。
雨に濡れた桜から漂う甘いとも渋いともいえない香りにつられて、心が軽くなった私は駆け足でスーパーへと向かうのだった。
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