見出し画像

反芻する人形


 短いクラクションの音でハッとする。前の信号は青に変わっていた。私は後ろの車に見えるよう右手を上げて、車を発進させた。
 そのギャラリーは目抜き通りを少し入った小路にあった。予定の時間にはまだ間がある。私はコインパーキングに車を停めて少し歩くことにした。辺りは表の喧騒が嘘のようにひっそりと静まり返っている。あたかも、夜を待ち侘びる街区そのものが息を潜めているようだった。猫がまどろむ店先のウインドウに、一枚の写真が飾られていた。

画像2

 薄衣だけを纏った女性の写真だった。彼女は窮屈な姿勢を強いられ、堪えるように眉を寄せてはいたが、口元は歪んではいない。むしろ、うっすらと開いた唇は今にも微笑みを浮かべそうだ。なにより印象的なのは、レンズを見据える彼女の瞳だ。羞恥と似ているが、それとは別の感情を宿しているように見える。強いて言えば、覚えのない陶酔の気配に戸惑いながら、飲み込まれようとしている自分にあらがっているかのようだ。
 私はそのモノクローム写真に誘われるように店のドアを開けていた。

「お待ちしていました」

 それが店主の接客用語なのだろう。ドアベルに気づいた男は、読んでいた本から顔を上げると、ドアマンのような口調で言った。重圧感とは違う深みのある声。心地良い響きから、優しさや信頼感を感じる女性も多いことだろう。

「あの写真は、貴方がお撮りになったのですか?」
 私は勇気を出して尋ねた。
「はい」
 私の父親くらいの年回りだろうか、カラーの無い白シャツに、上質の麻でできたコロニアル風のスーツを着た男。短く綺麗に整えられた白髪と、アゴからもみ上げにかけて繋がる髭が顔の輪郭を柔らかくしている。黒ぶち眼鏡の奥の瞳は薄いとび色をしていた。

「同じモデルさんですね」
 店の壁には同じ女性の写真がいくつも掛けられていた。
「ひとは、こんなにも美しい表情ができるのですね」
「意識した表情ではないからでしょう」
「作為的ではないと?」
「はい」
 溢れる思いと、それを押しとどめる気持ち。せめぎ合う光と影。複雑に絡み合う彼女の思いがそのまま写真に切り取られていた。
「こちらのモデルさんは?」
「……大切なひとでした」
 男は続けて言った。
「もう、前のことです」
「失礼ですが……お亡くなりに?」
「いえ、出て行きました」
 男の言葉に後悔や心残りの響きはなかった。
「愛していらっしゃったのですね」
「愛……そうですね」
「この方も、貴方のことを……」
 私が「愛している」という言葉を継ぐ前に男は言った。
「写真は、真実だけを映し出すとは限りません」
 レースのカーテン越しに差し込んだ光のベール。それが薄い影を作って壁の写真の上で揺れた。

 この店に入った時から聞こえていた音の正体はメトロノームだった。よくある四角錐型ではなく、見たことがない不思議な形をしていた。空洞になった四角い木のフレームの右上に取り付けられたゼンマイ。そこからスライドする錘のついた棒が上に伸びて、ゆっくり左右に揺れている。まるで、何もない空間から時を紡ぎ出すような永久機関。その機械が一定のリズムで空気を揺らす音は、ギャラリーの時間を緩慢にしていた。

12_トランク

 写真に向き直ると、”大切な人”と呼ばれた女性は四角いフレームの中で微笑んでいた。全てを受け入れられた女だけに許される笑顔。それが真実でないとしたら、彼女は何を思っていたのだろう。
「この表情は、彼女のありのままでないとおっしゃるのですか?」
「そうだとも、そうでないとも。彼女自身にも答えられないかもしれません」
 今になって思い返しても、どうしてそんな気持ちになったのか分からない。それなのに、男を振り返った私はこう告げていた。
「私を撮ってくださいませんか?」

 昭和初期に建てられたビルは、老朽化と耐震補強がネックとなり、銀座中を探しても、もうほとんど残ってはいない。男のスタジオは、そんな数少ないビルの一室だった。エレベーターの回数表示器は時計の針のようなモダンなデザイン。剥き出しのパイプが天井を這う廊下。窓や手すりにも趣がある。ビルのあちこちから同潤会アパートや九段会館の意匠が感じとれた。真鍮のノブがついた木製のドアを開ける。そこは撮影機材を除けば、古い映画に出てくる探偵事務所のようだ。時を重ねたデンマーク製の書机とキャビネットにソファー、反対の壁には小さなベッド一つ。生活の匂いというものが全く感じられなかった。

 私は男の元へ通い始めた。
しかし、写真を撮ってほしいとは言ったものの、モデルが何をするのかさえ知らなかった。なすすべなく身を固くする私を見兼ねた男は言った。
「貴女は、なにも考えなくていい」
 考えるなと言われるほど雑念が湧いてくる。私は男の目にどう映っているのか? 綺麗に見えるだろうか? どうしたら美しく撮ってもらえるのか? そんな私の気持ちを察したのか、男は言った。
「感じないことです」
 私は、男の指示されるまま身体をひねり、髪をかきあげ、脚を開いた。決して容易くはなかったが、私は少しずつ自分で考えることを放棄していった。しかしそれは経験したことのない心地良さをもたらした。ただ男の命令を待ち、身を任せるだけでいい。その通りにできれば褒められ、愛でられる。どんな結果に対しても一切の責任を負う必要がない世界だ。その中で、私は言いようのない安らぎに包まれていた。

画像6

「休もうか?」
「このまま続けてください」

 外の世界と隔離された水槽のような部屋。
 戦前のレトロな匂いと葛湯のようなトロンとした時間の流れ。
 その中にシャッターとストロボの音だけが響く。
 レンズに見つめられ、私は男の人形になる……。

「こちらにおいで」

 撮影を終えてガウンを着た私は、男に促されて暗室へ入った。セーフライトが灯された小さな部屋。酢酸によく似た匂いが鼻をつく。そこには水切り後にクリップでとめられたフィルムが何本も吊るしてあった。モーターの軸が歪んでいるのか、小さな換気扇がカタカタと回る音が聞こえる。

「見ていなさい」
 男は印画紙を現像液の満たしたステンレス製のバットに沈めた。それをトングで数回なじませるように押さえて裏返す。次にバットの縁を持ち上げて細波を起こしながら液が印画紙全面に行きわたるように優しく循環させた。

 赤い光がバットの中で揺れている。その中に沈んだ何もない紙。そこに私が幻のように浮かびがってくる。男は滑らかな手つきで定着までの工程を済ませるた。そして、水洗いした印画紙を別のトングでつまみ上げ、私に言った。
「君だよ」
「……」
 両手で口を押さえたままの私は言葉もなく震えていた。
「ここで抱いてください」
 思わず口をついて出たのは、男のモデルになってから初めて伝えた意思表示。人形でいることに飽き足らず、女としても愛されたいという私のわがままだった。

 男はそんな私を受け入れてくれた。所有され、無条件に愛される悦び。男との日々に夢中だった。しかし、それが錯覚だと気づくのに時間は掛からなかった。男の視線は私を素通りして、アノ人へと注がれていた。

「何故、アノ人を追わなかったの?」
「追っても無駄なことは承知していた」
「何故、許したの?」
「私は他の方法を知らない」
「わからないわ……」
「キミのことを愛している」
「私じゃない。貴方の愛しているのはアノ人。貴方の眼はいつだってアノ人のことを見ている」
 男は悲しそうに私を見つめた。
「私はどうすればいい?」
「わからない、私だってわからない……」
「ここを出ていくんだね」
「貴方を愛しているの……苦しいくらい。だからきっと……すぐに後悔して貴方のもとへ帰りたくなる」
「そうまでして行くのか」
「他にどうすればいいの? このままじゃ私……」
「キミを苦しめたくはない」
「ごめんなさい……」
「ここでキミを待っている」


 男の元を離れた私は彼に出会った。優しくて真面目な彼。彼は私を心から愛してくれた。毎日の生活はとても穏やかで、静かに過ぎていった。

画像1

「ね、式の日取りについてだけど?」
「えっ?」
「そろそろ式場の予約や、招待リストとか準備しないと」
「そうね……」
「教会式がいいよね? それと落ち着いた神前?」
「決められないわ」
「ドレスの試着とかもあるよね」
「気が早いわ」
「素敵なやつは早く予約が入っちゃうみたいよ」

 私の求めた安らぎ。彼と、やがて生まれる子供の笑顔に囲まれた穏やかな生活。これが私の悦び? この淡々と続く平穏な暮らしが私の心を蝕んでゆく。忘れようとした男への思いが甦る。鍵を掛け、心の奥底へ深く沈めた思い。それは私の中で生き続けていた。見ないふりをすればするほど、私の中で膨らんでゆく。

「結婚式はできない……」
「えっ?」
「ごめんなさい」
「突然どうしたの?」
「アナタと夫婦にはなれない」
「分からないよ、何が不満なの?」
 道理の分からない子供を諭すように、彼は辛抱強く私に話しかけた。
「不満なんてないの」
「じゃあ、僕が何かまずいことをした?」
「違うの、アナタのせいじゃないわ」
「だったら、ちゃんと式をあげようよ。そして籍を入れるんだ」
「幸せよ。だけど、違うの……」
「いったい、どうしちゃったんだよ」
 彼の必死な姿がおかしくて、笑いそうになるのを堪える。
「私と別れて」
「君を失うのは絶対にいやだ!」
「私を行かせて」
「ダメだ、キミをどこへも行かせない!」
「本当にごめんなさい。ダメなの……」
「いったい何がダメなんだ?」
「ダメなの…………アナタじゃ」

画像5

 すれ違うクルマの数だけ、私はあのひとに近づいていた。レンズ越しの視線が肌をチリチリと焼く感覚を思い出す。命令を待つ間の焦燥感、与えられた課題をこなし、褒めてもらう悦び。アノ女の身代わりでもなんでも構わない。男の足元にうずくまるネコのように飼われたい。一刻も早くあの濃密な時間へ帰りたかった。

 しかし、その前に寄り道しなければならない。彼のことはディスポーザーで可能な限り処分して量は減ったが、それでもまだ8袋残っている。個々の重さを減らしたから仕方ない。さっさと捨ててしまおう。そうすれば、私はあの古いビルの階段を駆け上がり、ドアを開けて男の胸に飛び込んでいる。そう思うだけで、運転している私の口元は緩み、あの人を求めてやまない部分は熱く溢れていた。

 なんだろう、さっきから頭の中で小さな音が聞こえていた。時を刻むような……。
「あの古いメトロノームだ」
 今は、はっきりとその音が聞こえている。あの時、私と男の間に流れてい愛しい音。
 その音は最初こそ規則正しく鳴っていたが、次第に遅くなっている。いや音だけじゃなかった。私を含めた全てが止まろうとしている。全てがスローモーションのようだ。やがて音が止まり、私は闇に包まれた。

 後ろから鳴らされた短いクラクションの音でハッとする。前の信号は青に変わっていた。後ろの車に見えるよう小さく右手を上げた私は、車を発進させた。

 そのギャラリーは、目抜き通りを少し入った小路にあった。猫がまどろむ店先のウインドウに、一枚の写真が飾られていた。私はそのモノクローム写真に誘われるように店のドアを開けていた。

ピクチャ 2


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?