ミュージシャンと聴き手との関係性⑥

今日は「自分のやりたいようにやる」というパターンのうち、聴き手のことを気にしても「分からない」から、好きなようにやる、というミュージシャンについて書きたいと思います。

分からないことを知っているからこそ割り切ってやっている、ということです。

分からないことに無自覚であれば、本当にそのままのものしか出てこない。

それに対し、この点に自覚的なミュージシャンは好きにやりながらも悩むんですよ。

そこで一種の思考が入るからです。

どうしても頭の中にそういう意識が残るんですよ。

だから好きなようにやっていても、そこに逡巡であるとか、とまどいといった要素が出てくるものです。

好きにやっていても、どこかでこれでいいのかを気にしてしまう、そういう方達です。

これまではプロにしかなかったパターンだと思います。というのも、メジャーになればなるほど聴き手が見えにくくなるからです。

ただ、音楽業界自体が変わってしまったが故に、アマでもこういう方達は増えていると言ってよいでしょう。

「聴き手」が見えづらい時代になってきているからです。自分自身はこのパターンではないと思いますが、やはり「聴き手」が見えない、これは体感的に言えることです。

YouTubeにしてもサブスクにしても誰がどう聴いているのか、さっぱり分かりませんからね。

そういう意味では難しい時代だと思います。

聴き手を意識するということは、ある意味雲を掴むようなものですから、

そこを意識し過ぎると、自分の音楽自体が迷走しかねない。

ただそこで生じる逡巡やとまどいがないのとでは大違いです。

そこには自然と「他者の視点」が入っているんですよ。だから好きなようにやりながらも、完全に自分の好きなようには出来なくなってしまう。

昨日のような世界とは全く違う世界です。

ただここまでいかないと、ミュージシャンであったとしても、アーティストにはならないでしょうね。

芸術とは近代の産物ですから、近代的自我の無いところには生まれません。

まあ芸術が偉いのか、と言われると、確かに偉いとは言えないかもしれませんが.…。

ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。