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ユニクロ・柳井会長兼社長の、京大への100億円寄付について思うこと

はい。ブルーバレーことBlue Valleyです。


今回は時事ネタについて自分の意見を言う回です。

初の意見主張回ですので、温かい目と厳しい目でご覧いただけたら嬉しいです。


柳井氏がどんなことをしたのか

皆さんご存じ衣料品メーカーの大手「ユニクロ」の会長兼社長である柳井正氏が24日、京都大学の山中伸弥教授と、本庶佑教授の研究に対して、10年間で50億円ずつ、合計100億円を寄付することを発表しました。

100億円の内訳としては、45億円を山中教授のiPS細胞に関する施設の建設費などに、5億円をiPS細胞を活用した新型コロナウイルスの病態解明やワクチン開発に用いられるそうです。

一方、残りの50億円は本庶教授のがん免疫治療の研究費に充てられるそうです。


驚くべきなのは、この100億円が「ユニクロ」としての寄付ではなく、柳井氏のポケットマネーであるところです。

国内長者番付でも常に5本の指には入り、世界長者番付でもTop30入りを果たすような人ですからね…100億円なんて大した金額ではないということなんでしょうか…笑



寄付について

まず大前提としてですが、私は寄付が嫌いです

といってももちろん自分が寄付をするのが嫌いなだけであって、「寄付」という行い自体は非常に素晴らしいことだと思います。

小さな所では、コンビニやファストフード店のレジに募金箱が置いてあったり、献血なんかも寄付の一種ですよね。大きな単位になると、クラウドファンディングで事業が行われたり、匿名で小学校にランドセルが寄付された、なんてニュースもありましたね。

最近では、アベノマスクや給付された10万円を、それらを本当に必要としている人に寄付するという崇高な行いも耳にしたことがあります。


そしてこの寄付というシステムは、基本的に一方通行のものであり、自分への見返りを期待しない行いです。

中には、「情けは人のためならず」精神でやっている方もいるかもしれませんが、形や本意はどうあれ、こうした誰かを助けるという行為は本当に素晴らしい行いであるとしか言いようがありません。



言いたいこと

じゃあ今回の寄付の話を聞いて、私は何を言いたいのか。

それは、「寄付の価値」についてです。


私も、柳井氏と山中教授と本庶教授が並んで会見を行っている様子を見ましたが、その中で山中教授が「こうした寄付をして頂けるのは本当にありがたい。」と仰っていました。

医療現場の厳しい経済状況を考えると、こうした発言の重さも十分に理解できます。


しかし、ここで私が気になったのが「寄付の価値」です。

柳井氏は100億円という金額を寄付しました。では、京大の研究所に対して、月のお小遣い1000円を全て寄付した少年は、研究所からしたらどのように映るでしょうか?もしくは、落ちていた10円玉を研究所に寄付した女性は、研究所からしたらどのように映るのでしょうか?


100億円という前代未聞の金額が寄付されたとなると、もちろんニュースや新聞で取り上げられるべきでしょう。逆にいちいち10円の寄付についてニュースにしていてはきりがないことも確かです。


ですが、寄付を受け取った研究所は、100億円の寄付をしてくれた人と10円の寄付をしてくれた人を、同じ扱いにできるのでしょうか?



寄付は、その金額でなくその「思い」にこそ意味が宿ると私は思います。

「誰かを助けたい」という思いから発生した寄付であれば、10円でも100億円でも、その熱量が同じであれば、寄付としては同価値だと思います。



こうしたことを踏まえた上で、一つ目の懸念が、「寄付」としての価値は同じはずなのに、そこに金銭由来のような格差が生じてしまうことです。


プレゼントをもらった時、それらは値踏みして高い価格のものをくれた人には良い態度を、低い価格のものをくれた人には冷たいあしらいをする人は、皆さんの目にはどのように映りますか?

普通は、「プレゼントをもらった」という一つのくくりの中で、くれた人全員に対して同等の感謝の意を述べるはずですよね。


同様に、「寄付」とは本来、「寄付」というくくりの中で同等の感謝の意を述べるべきものです。


京大の研究者たちのように、寄付者一人一人に対して真摯にお礼を言えないような忙しさの人ももちろんいます。

ですが、もう少しカジュアルな寄付の場面において、寄付金の如何によって人までもが値踏みされたり、寄付者の間に優劣関係が発生してはいけないと私は思います。




二つ目の懸念が、寄付者の気持ちです。


そもそも利他的な行いである寄付に、価値も何もないのではないか、という考えも理解できます。

寄付をする側は、「寄付をする」という行い自体に意味があり、受け取る側がその寄付に対してどのような気持ちを抱くかは自由です。


ですが私が気になるのは、寄付を行おうとする人の気持ちです

自分が1000円の寄付をしようとしている時に、横の人が1万円寄付したら、あなたはどう思うでしょうか?

「じゃあ自分は2万円寄付してやる!」となったら、それは良い相乗効果と言えるでしょう。しかし一定数の人は、「1万円の後には1000円は出しにくいわ…」と思う人もいるのではないでしょうか?


さすがに100億円という桁外れの数字を前にすると、一般人は自分の寄付と比べようとは思わないでしょうが、寄付の数字がより身近なものになるにつれて、寄付をする人も次第に自分と比較するようになります。


寄付というのは、それこそ圧倒的に利他的な行いであるべきです。

しかしそこに、金額をテーマにした競争が発生してはいけないのです。


もし寄付の世界に露骨に競争が表れるようになると、本来寄付をしようとしていた人を脱落させるかもしれませんし、「他人のため」の行いが、「自分のため」の行いに変わってしまうこともあるかもしれません。

対して寄付を受け取る側は、単にその寄付に焦点を当ててしまえば良い訳ですから、寄付の世界で競争が行われることを、むしろ歓迎するかもしれませんし、そうするとますます「寄付」が持つ本当の意味が失われてしまいかねません。



以上の二つが、私が寄付に対して思うことです。

寄付の中に金銭的格差が生まれること、寄付する人がその利他的な気持ちを失い、寄付世界自体が悪循環に陥ること。

これらを根本的に解決するために、寄付をする側される側に関係なく、「寄付」の価値は、その「金額」ではなく「思い」で決まるということを心に留めておくことです。

このことを理解していれば、寄付を受ける側も、そこに傲慢な態度は生まれないはずですし、寄付をする側も、金額の大小で自分の利他的な気持ちが揺らぐこともなくなるでしょう。

「寄付」に対して物質的価値を付けるのではなく、「寄付」という行い自体に対して同等の精神的価値を見出すべきなのではないかと、今回のニュースを見て私は思いました。




今回はここまでとなります。

初の意見主張回でしたが、自分の意見を言語化してまとめるのって難しいですね…

やはり多くの人のように、日頃から自分の意見を言語化する訓練は必須かもしれませんね!


この主張に共感して頂けた方はハートを、異論がある方はコメントにてお知らせ頂けると幸いです!


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