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『両手にトカレフ』ー 子どもであるという牢獄


『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』には出てこないティーンたちがいました。
ノンフィクションの形では書けなかったからです。
あの子たちを見えない存在にしていいのかというしこりがいつまでも心に残りました。
こうしてある少女の物語が生まれたのです。

作者  ブレイディみかこさんからのメッセージ


ブレイディみかこさんの『両手にトカレフ』は、子どもの貧困をテーマにした小説だ。

ティーン向けに書かれたような読みやすい文体ながら、内容は決して甘くない。
表題の「トカレフ」が拳銃のことだとわかったときには、ひやりとした。

銃を両手に少女が撃ち抜きたかったもの、それは一体なんだろう。


1.子どもの貧困

生活保護費がドラッグに消えていく

 そのうち雑誌の上には白い粉が載るようになっていた。ドラッグをやったらお腹が空かないのよ、と言ってミアに吸わせようとしたことすらある。たぶんミアが7歳か8歳ぐらいのときだ。
 そもそも母親が生活保護をあの粉に使ってしまわなかったら、ミアも弟もいつもお腹を空かせている必要はないのだった。あの粉に比べたら、ポテトは安い。パンだって安い。チップスだってソーセージだってずっと安い。
 なのに母親はそれらの、命に必要なものを買わない。自分や子どもたちを生かすためのものをちっとも買わない。

『両手にトカレフ』より


物語の舞台は現代の英国、主人公は14歳の少女ミア。

アルコール&ドラッグ中毒の母親に代わり、9歳の弟チャーリーの世話を、ほぼ一人でしている。
いわゆるヤングケアラーだ。

* * * *

ミアの制服のスカートは、とても短い。

ファッションではなく、成長する体に合わせて制服を買い替えるお金がないからだ。

そしてなぜお金がないかと言えば、生活保護費のほとんどを、母親が飲酒とドラッグに使ってしまうから、なのだった。

家に食べ物がない状況の中、それでもミアは弟を学校に送り出し、何でもない顔をして自分も学校に通う。

ミアは弟を何よりも大切にしている。
弟がお腹が空いたとぐずれば自分は食べずに弟に与え、貧困を理由にいじめられれば必死で守り、慰める。

それでもときどき、ミアは弟にキレてしまう。
「わたしだって我慢してるんだよ!」と怒鳴ってしまう。

無理もない。
どれほどしっかりしているように見えようと、ミア自身だってまだ、ケアを必要とする子どもなのだ。


体臭を恐れて図書館に入れない

ミアはよく図書館に行く。
本が読みたいから、だけじゃない。
エアコンがきき、コンピューターが無料で使え、運が良ければテーブルの上に前の利用者が残していった食べ物があるからだ。

図書館へと向かうエレベーターの中。
楽しそうに乗り込んできた大学生カップルがふいに沈黙し、早々に降りてしまう、という場面がある。

エレベーターに残されたのは、ミアとホームレス風の男性だ。

 くさいんだろう。おじさんが臭うのだ。ミアはこの臭気には慣れている。アルコールとアンモニアが混ざったような独特の臭い。ミアの母親もこんな臭いをさせるときがある。何日もシャワーを浴びず、洗濯もしないで酒を飲んでいると人はこんな臭いを発し始める。
 が、はっと気づいてミアは下を向いた。
 もしかしたら、くさいのは私なのかもしれない。ガス代が上がってから、最後にシャワーを浴びたのはいつだったろう。母親と同じ家で暮らしている私も、あの臭いをさせているのかもしれない。
(中略)
 学校をサボってショッピングモールやゲームセンターに行ける中学生たちとは違い、ミアには図書館ぐらいしか時間を潰す場所がなかった。冬はとくにそうだ。ここは適度に暖かく、運が良ければ、テーブルの上にフルーツや食べ残しのチョコレートバーを置いて帰る人がいたりする。
 本当に私はホームレスの人たちと同じだとミアは思った。

『両手にトカレフ』より

ガス代節約のためシャワーを浴びていないミアは、自分が発しているかもしれない臭気を気にして図書館の閲覧室に入ることを諦める。

そして思う。
「自分はホームレスの人たちと同じだ」と。


2.貧困の連鎖

貧困の連鎖が奪うもの

ミアは、貧困層が住む公営団地に住んでいる。
ミアの母親もまた、同じ公営団地で育った。

貧困は、世代を超えて連鎖しやすい。
その一因としてよく挙げられるのは「教育格差」だ。
富裕層と貧困層とでは、与えられる教育の質と量に埋めがたいほどの差がつきやすい。
そしてその教育格差は、往々にしてそのまま生涯収入格差へと繋がってゆく。

でも、貧困の連鎖の原因はもっと深いところにあると、わたしは思う。

人生への信頼、社会への肯定的な態度、自分も努力次第で豊かになれるのだという希望、そういったものが親から受け継がれないことこそが、貧困が受け継がれていく最も根深い原因だ。

世代を超えて連鎖した貧困が奪うもの、それは「人生への希望」だ。


「どうせ助けてもらえない」という信念

人生や社会への信頼、「自分の未来を変えられるかもしれない」という希望の代わりに子どもたちに植えつけられるのは、「どうせ助けてもらえない」「どうせこの生活を変えられない」という信念だ。

「人生は厳しく、世間は冷たい。誰も私たちを救ってはくれない」と言われて育った子どもは、本当に助けが必要になったとき、どうしたらいいのだろう。
「助けを求めて手を伸ばしても無視されるだけだ」と信じていたら、自ら助けを求めることなど、一体どうしたらできるだろう。

「お金持ちになりなさい」と言いながら、同時に「金持ちは汚い、あいつらみたいになるな」と言われながら育った子どもは、一体どうしたらいいのだろう。
お金は欲しい、けれど汚い人間にはなりたくない。
なりたくない人間になろうとする努力は、とても苦しい。


子どもを不幸にしたい親などいないのに

 ミアがうんと小さかった頃、母親はミアをここに連れてきた。
 本がたくさんあるのよ、本をたくさん読みなさい、本を読まなかったから私はこうなった。そう繰り返し小さかったミアに言って聞かせた。そのわりには母親から絵本を読んでもらった記憶はない。本さえ借りて帰ればそれで親としての任務は果たしたと母親は考えていたのだろう。そこらへんに絵本を転がしておけば、そのうち子どもはひとりでに読み始めると思っていたのだ。おそらく彼女も又、親に本を読んでもらった記憶なんてなかったから。

『両手にトカレフ』より


ミアの母親だって、決してミアを不幸にしたいわけじゃない。

その証拠に「本をたくさん読みなさい、本を読まなかったからわたしはこうなった」と、幼いミアに繰り返し言って聞かせ、図書館に連れて行ったりもしたのだ。

けれどミアの母親は、一度もミアに絵本を読み聞かせなかった。
母親自身が、子どものころ読み聞かせてもらった経験を持たないからだ。

子育てをするとき、人は自然と「自分が親にしてもらったこと」を子どもにする。

本を読み聞かせてもらった子どもは本を読み聞かせる親になり、褒められて育った子どもは褒める親になる。
叱られて育った子どもは叱る親になり、叩かれて育った子どもは叩く親になる。

これとは逆に、「自分が親にしてもらわなかったこと」を子どもにするのは、とても難しい。

子育ての方法は、ふつう学校では学ばない。
意識的に子育て論を学ぼうとしない限り、自分の実体験を通じて知り得たモデルからしか子育ての仕方を学ぶ機会がない。

それはつまり、自分の親の子育てを真似る以外に選択肢がない、ということだ。
「違う子育ての仕方がある」ということすら、ふつうは気づけない。

この「親から学んだ子育て」から抜け出すのは、なかなか難しい。

ひとつには「自分がされたものとは違う子育てをしたい」という気づきと学ぶ覚悟が必要になるからだし、またもうひとつには「自分の親の子育てを否定する」という心理的ステップを乗り越える必要があるからだ。

これもまた、虐待や貧困が連鎖していく大きな原因のひとつだ。


3.本は別の世界の入り口

確かにミアの母親は、ミアを図書館に連れて行った。

けれども、「読み聞かせてもらう」という体験を一度も持たない子どもは、「本を読む」ことはできない。
本は読むものだ、という認識が持てないからだ。

ミアの母親自身もまたそのような経験を持たない子どもだったからこそ人生に本が入り込む余地がなかったのだし、「子どもに本を読み聞かせる」という発想も持ち得なかった。

「本は読むものだ」ということを知らない幼い頃のミアは、本を「ページをめくったり閉じたりして遊ぶための玩具」だと思って過ごす。
そこに別の世界の物語が閉じ込められているなど、思いもしなかった。

母親の恋人が、ミアに読み聞かせをしてくれるまでは。

* * * *

 ドラッグ・ディーラーの男はやさしい性格で、ミアの母親がつきあってきた他の男たちみたいに彼女を殴ったりしなかった。でも、酒をたくさん飲んだ。いつも酒を大量に飲んでミアの母親とあの行為をした。
 小さなミアはその脇で母親が図書館から借りてきた絵本をパラパラめくっていた。男はきっとそんな彼女のことを不憫に思ったのだろう。母親が眠りこけた後、ベッドから降りてきてミアの隣に座った。そしてミアが手に持っていた絵本を読み始めた。
 リズミカルな口調にミアは驚き、この人は何を言っているのだろうと目を見開いて彼の顔を見た。そして、すぐに男が語る物語に魅了された。ミアはこのとき、絵本が指でページをめくったり閉じたりして遊ぶための玩具ではないことを知ったのだった。そこには何か、声を出して読んで聞かせ、耳で聞くことのできる物語が書かれているらしい。
 聞いたこともない名前の人や動物、知らない人たちの経験が本の中に広がっていた。それは、いまここにいる場所とは違う世界の物語だった。
 ミアは、ここじゃない世界の話を聞くことが大好きになった。

『両手にトカレフ』より


この体験によって、ミアは「ここじゃない世界」があるのだということに気づく。

ここじゃない世界。
いつもお腹を空かせ、殴られ放っておかれるこの場所以外の、ひろやかな世界。
ミアはたちまち物語の世界に夢中になる。

母親の恋人はほどなくして去ってしまうけれど、この体験はミアの中にきらきらと残った。

ここでまたもう一人、ミアに「本を読むこと」を勧める大人が現れる。

彼女はミアに、知識を身につけることこそが「この世界」から出ていく方法だと教える。
「こことは違う世界の住人」になるために、自分一人で本を読めるようになるようミアを励ます。

 「二人とも、早く自分で本が読めるようになりなさい。たくさん本を読んで大学に行けば、私のような仕事をしなくてすむし、こんな団地に住まなくてもすむ。一生懸命勉強して、こことは違う世界に住む人になりなさい」 
 スーパーマーケットで働いていたゾーイはいつもこう言った。ドラッグ・ディーラーの男は、本の中にはこことは違う世界があるということを教えてくれた。そしてゾーイは、本をたくさん読んだら違う世界に住む人になれるという。
 「本」と「違う世界」は、繋がっている。
 ミアはそう直感した。そしてそう思うと、頭の中にあった固い栓がぱっと開いたような晴れやかな気持ちになった。

『両手にトカレフ』より


こうしてミアは、本は「違う世界への入り口」なのだと考えるようになる。

ミアが本を通じて手に入れたもの。
それは「別の世界に行けるかもしれない」という希望、貧困の連鎖から抜け出すために自ら立ち上がろうとする力だ。


4.子どもには選べない ーー 子どもであるという牢獄


 びゅうびゅうと吹く風に肩を震わせながら、私は星一つない空を見上げていた。夜に体ごと吸い込まれてしまいそうだった。この母を私は選んでいない。母が連れてくる男たちだって私は選んでいない。子どもには何も選べない。
 もう悲しいとは思わなかった。ただ私は悔しかった。自分が子どもであることが、自分では何一つ選べないことが、猛烈に悔しかった。

『両手にトカレフ』より


子どもであるということは時に、自分の人生についての決定権がないということでもある。
子ども時代、人生の重大ごとについての決定権は、そのほとんどが保護者にあるからだ。

保護者自身が満たされて、かつ子どもの幸せを望んでいる場合には、それが問題になることはほとんどない。
保護者は、自分が取り得る選択肢の中で子どもにとって最善だと思う道を、ふつうは選択するからだ。

けれど、保護者自身が必死に助けを必要としている場合には、事情は大きく変わってくる。
親は自分の人生を生きるのに必死で、「子どもにとって最良の道」を考える余裕をなくす。
親の生きる人生に、子どもは否応なく巻き込まれる。

「自分の人生について決定権がない」ということは、ときに牢獄になり子どもを激しく苦しめる。

自活していく力のない子どもにとっては、たとえ自分をどんなふうに扱う親であろうと、親を棄てて立ち去ることは至難の業だ。
その牢獄に留まり続ける以外、現実的な選択肢がない。

立ち去れる可能性があるとすれば、そこから引っ張り出して保護してくれる力のある他の大人の存在に、幸運にも巡り合えたときだけだ。


5.彼女が撃ち抜きたかったものは

『両手にトカレフ』。
その両手の銃で、ミアが撃ち抜きたかったもの。

それは自分自身の「諦めの心」だ。

どうせできない。
どうせやれない。
どうせ助けてもらえない。

それはミア自身が味わってきた「助けてもらえなかった経験」から導き出された経験則なのだけれど、実はその経験則こそが、自分を「この世界」に縛りつけているのだとミアは少しずつ気づいていく。

「この世界」から抜け出したいなら、「この世界の経験則」を棄てなくてはならない。
「どうせ無理だ」という自分自身の諦めの心を、撃ち抜かなくてはならない。

こうしてミアは、勇気を奮い立たせて「助けてもらう」という選択肢に手を伸ばす。

物語は、そこで終わる。

* * * *

この物語はフィクションだ。
けれど「ノンフィクションの形では書けなかった」という作者の言葉からわかるように、ミアのモデルとなる、あるいはミアによく似た子どもたちは、実際に存在する。

このミアの物語は、ミアが助けを求めて社会に手を伸ばすところで終わる。
その手をしっかり掴むのか、それとも掴み損ねるのか。
この物語の続きをどうするのかと、作者は読者に投げかける。

その答えは、現実世界を生きるわたしたちに委ねられる。

* * * *

助けてもらえないかもしれない、と思いながら、それでも「助けて」と手を伸ばす。

それはとても勇気のいることだ。
子どもが伸ばしたその手を受け止められる世界を作りたいと、わたしは切実に思う。

きれいごとだけじゃないのは知っている。
いろいろな事情や思惑や病気や法律が絡み合う、複雑な問題だ。

だけどそれでも、願わずにはいられない。

子どもが「子どもである」という牢獄の中で苦しみ続けなくていい世界に、どうかなりますように。

* * * *

ここでご紹介したのは、『両手にトカレフ』の豊かな物語世界の、ほんの一部分です。

ここにはとても書ききれなかったたくさんの要素がまだまだあり、多面的に考えさせられる一冊でした。

これだけの内容を、これほどの読みやすさに仕立て上げる作者の手腕に脱帽。



* * * *

お読みいただき
ありがとうございました。

どうぞ素敵な一日を!

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