センス・オブ・ワンダーを育む
早朝の公園。
誰もいない新鮮な空気の中を、
まだ小さかった娘と、よく一緒に歩いた。
草の上には無数の朝つゆがきらきらと光り、まるで宝石が散りばめられた絨毯の上を歩いているようだった。
娘は一歩ごとに立ち止まり、
そんな朝つゆを飽きることなく眺めた。
* * * *
自然の美しさに目を見はるときに感じる、幸福な驚き。
東京で暮らしていても、日常の中にこういう瞬間はたくさんある。
そんなときに決まって思い出すのが、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』だ。
センス・オブ・ワンダー。
神秘さや不思議さに目を見はる感性。
この感性がある限り、日常はきらきらとやさしく輝き続ける。
ほとんど誰にも見られることのない朝つゆは、毎朝毎朝、近所の公園で輝いている。
一瞬たりとも同じ表情を見せない空は、すべてが違うのにどれもがみな完璧だ。
美しさは日常の中に、豊かにふんだんに、満ち溢れている。
* * * *
子どもを育てるようになってから頻繁に思い出すようになった一節が、同書の中にもうひとつある。
自然の神秘に触れて目を見はるとき、子どもがその感覚をしっかりと意識し味わうためには、そばでいっしょにその感動を分かち合ってくれる大人が必要だ、とレイチェル・カーソンは言う。
それはきっと、言語化することに関係しているのだと思う。
言語化は、感覚を意識にのぼらせるためのツールだ。
体の中に確かにうまれた感動の感覚は、けれど、誰とも分かち合わず十分意識されないままであれば、時間とともにいつのまにか忘れてしまう。
鮮明だった夢が、目覚めたあと時間とともに急速に薄れていくように。
でも、そばにいる大人(感動を言葉にすることのできる誰か)と一緒に「きれいだね」「すごいね」と言い合うことで、あるいは「ほら見て」と共に指さし幸福な時間を共有するだけでも、その感覚は意識され、子どもたちの中で生き生きと輝きだす。
子どもたちと一緒に自然を眺めるとき、美しいものを美しいと感じる感性が彼らのなかにあらかじめ備わっていることに、いつも感動する。
その瞬間に立ち会い、それを言葉にする手助けができることは、とても楽しい。
* * * *
レイチェル・カーソンは、子育て中の親たちにこんな素敵なアドバイスをくれる。
* * * *
「自然界を探検することは、貴重な子ども時代をすごす愉快で楽しい方法のひとつにすぎないのでしょうか。それとも、もっと深いなにかがあるのでしょうか」と問いかけたうえで、彼女はこう続ける。
鳥の渡り、潮の満ち干、花のつぼみ。
周りを見渡せばすぐに見つかるこのありふれた風景の中に知性や調和や美を見いだすとき、わたしたちは深い畏敬の念に打たれる。
このなんとも言い難い深い感動は、わたしたち自身の「生」への本質的な気づきと繋がっているのだと思う。
小さな花のつぼみに感じる畏敬の念は、わたしたち自身の生命への畏敬の念だ。
鳥の渡りを見て感じる知性と調和への驚きは、わたしたち自身の生命がもつ知性と調和への驚きだ。
地球と自分の存在の、その奇跡。
産まれて、生き、死んでいくことの、その調和。
それを感じ取れる感性=センス・オブ・ワンダーを育み持ちつづけることは、確かな「生きる力」としてわたしたちを支える。
* * * *
『沈黙の春』で世界中に影響を与え、「一冊の本で世界を変えた作家」と呼ばれた海洋学者レイチェル・カーソンは、小さな孫とともに自然を眺めることを愛するひとりの祖母でもあった。
彼女から教えてもらったことはわたしの中で息づき、人生の大切な財産であり続けている。
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お読みいただき
ありがとうございました。
どうぞ良い一日を!
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